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ミステリの祭典

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美しい星

作家 三島由紀夫
出版日1962年01月
平均点7.00点
書評数1人

No.1 7点 人並由真
(2021/02/25 05:04登録)
(ネタバレなし)
 1960年代の初頭。全世界に核戦争危機の影がよぎるなか、飯能市の金持一家・大杉家の家族4人が、自分はそれぞれ太陽系の別の天体を出自とする宇宙人の転生だという意識に目覚める。52歳の家長・重一郎は火星人、妻の伊余子は木星人、長男の一雄は水星人、長女の暁子は金星人だった。4人はそれぞれの立場を守りながらも連携し、空飛ぶ円盤や宇宙人を信じるものに呼びかけ、そして世界平和のために活動する団体「宇宙友朋会」を結成。協賛者を募った。だが仙台では、白鳥座を出自とする別の宇宙人グループが覚醒。彼らは彼らなりの理念から、地球人類は核戦争で滅亡すべしとの信条を抱いた。

 雑誌「新潮」の1962年1~11月号にかけて連載され、翌年に書籍化された作品。
 評者は中高生の少年時代に、書籍元版刊行時=1963年頃の日本語版「ヒッチコックマガジン」を古書店で入手。そのなかのある号の国産ミステリ月評で本作が大絶賛されているのが目に留まり(そこではあくまで国産SFの注目作という視座で語られていた)、その高評の勢いを受けて、自分もその時点での新潮文庫版を購入した。

 とはいえ実際に手にした実作は、当時のコドモがそのまま賞味するには高尚すぎる? 歯ごたえだったのであろう。冒頭の十ページ(重一郎が自然の植物の生態の整合のなかに、宇宙の縮図を感じるあたり)で投げ出して、そのままマトモに読むのは何十年の歳月を経た今回になってしまった(昨日から2日かけて通読)。いや、そのうち読もう読もうと思い、興味がぶり返す機会は、何度もあったのだが。

 もちろん太陽系の各惑星人の転生という設定からして、まともな科学SFというよりはおとぎ話に近い面もあるし、そもそも物語は最後まで、もしかしたらこれは自分たちが宇宙人だと思い込んでいる痛い悲しい人たちがたまたま寄り集まった一家の不条理小説では? と読み手に疑念を抱かせ続ける作品でもある(ただし随所の場面で、作中での空飛ぶ円盤の飛来事実は、きわめて客観的に叙述される)。

 なんにしろ第三次世界大戦=核戦争の脅威がなまなましく現実的な時代の小説、という側面は大前提の一編である。そういう意味では黒澤明の映画『生きものの記録』(1955年)みたいな、21世紀の今の目で見れば「当時は大変だったんだなあ、今だって油断はできないよなあ」と思いながらも、どっか呆れて失笑してしまうブラックユーモア的なニュアンスもなくもない(いや、それはけしからん受け取り方だとは重々承知しておりますが~汗~)。

 中盤の山場となるのは、長女の暁子がもうひとりの「金星人」竹宮と出会うくだり、さらにはその顛末。そして本当のクライマックスは、後半の仙台の白鳥座グループと重一郎との論戦。特に後者は、当時、日本小説史上でも類をみないディスカッション作品として反響を得たというが、さもありなん。
 少し後の世代の平井和正とかの<人類ダメ小説>の系譜なんかにも、相応の影響を与えたんじゃないか、とも勝手に推察する。

 惜しいというか、普通の小説の読み方ですわりが悪いな、と思ったのは、長男の一雄を介して仙台グループを重一郎に会わせるきっかけになった前半からの重要キャラっぽい若手政治家・黒木克己が最後の方でまったく忘れられてしまっている? こと。作者的にはもう用済みだったのかもしればいけれど、(中略)とかわざわざ描写した叙述の布石はちょっと違和感が残るよね。
(なお数年前の本作の新作映画版はまだ観てないけれど、そちらでは映画化に際して黒木の存在がかなり拡大されているようで、そういう潤色をしたくなった気分は、なんとなく&とてもよくわかる。)

 クライマックスの論戦のあと、重一郎を見舞う(中略)はかなり(中略)だが、読者を揺さぶる小説の作りとしてはまっとうだとも思う。それだからこそ、このエピローグの輝きが生きるとも思えるし。

 今の時代に改めて(初めて)読んでも意味がある作品だとは思うものの、やはりこれは1950年代~1960年代前半という時代の空気のなかにあった小説だとも感じはした。リアルタイムで読んで、心の財産のひとつにできた先人たちが、ちょっとだけ羨ましくもある。

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