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ミステリの祭典

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バティニョールの爺さん
別題「バチニョルの小男」「バティニョールの老人」

作家 エミール・ガボリオ
出版日2014年02月
平均点7.00点
書評数1人

No.1 7点 弾十六
(2020/06/30 00:40登録)
フチガミ先生の素晴らしいソーンダイク短編全集が出るらしい、と遅まきながら藤原編集室のページで知って、アマゾンで予約しようかな?と思って検索したら、謎の「牟野素人」さんの存在を知りました。ガボリオやソーンダイク博士の翻訳をkindleで廉価に販売されていて、進行中の翻訳はWEB「エミール・ガボリオ ライブラリ」に連載されておられます。現在はソーンダイクものの未訳長篇「もの言わぬ証人」後半を訳出中。
これは貴重!でも翻訳の質(私が言う資格は… まー気にしないで)はどうか?そんな訳で試しに短篇『バティニョールの爺さん』を買ってみました。参照したテキストは仏語Le Petit Vieux des Batignolles (1884 E. Dentu, Paris, 10e édition)と英語The Little Old Man of Batignolles (1886 Vizetelly, London)、恐ろしいことにこの二冊は無料でWebに転がっています… 正直、非常にありがたい事なんですが、これで良いのか?ちょっと文化の行く末が心配です。(なお『クイーンの定員1』文庫版収録の松村喜雄訳は残念ながら未入手で参照出来てません…)
結論から言うとちょっと辞書に引きずられすぎで生硬い感じはあるものの、実直な翻訳。変に慣れ崩した感じが無いのが良いですね。大学のフランス語の授業を思い出しました…(遠い目)
ガボリオの長篇を精力的に翻訳されており、この価格で長篇も読めるのは非常にお得だと思います。是非この調子で現在手に入りにくい作品を翻訳していただきたいものです。
さて、この『バティニョールの爺さん』、仏wikiには何の説明も無く1870年発表、と書かれています。色々探すとWeb上のガボリオ著作リストで一番詳しいのがロシア製のhttp://rraymond.narod.ru/rf-gaboriau-bib-fru.htm。≪Mémoires d’un agent de la Sureté : Le petit vieux des Batignolles≫ publié sous le pseudonyme de J.-B.-Casimir Godeuil. - Le Petit Journal : 7 juillet – 19 juillet 1870、とありました。つまり初出は登場人物の「ゴドゥイユ」名義だった訳ですね。(13回連載?だが単行本は12章) 実は短篇集にはプチ・ジュルナル紙編集部の前書きとゴドゥイユの前説があって、編集部前書きには「謎の原稿が我が編集部持ち込まれたが名義の「ゴドゥイユ」は正体不明で所在不明… 内容が良いので掲載する」という如何にもな設定。ゴドゥイユの前説は「先日、犯罪者が判決を受けた時に、警察の実力を先に知ってたら正直に暮らしていた、と嘆くのを聞いて、我が回想録が犯罪防止に役立てば… 犯罪は上手に隠しても必ず露見する!」というもの。これ、英訳には短篇『バティニョールの爺さん』の中に収録されていますが、仏オリジナル短篇集では小説の外についてて、短篇集全体の前書きの扱い。(しかし短篇集の他の作品にはゴドゥイユは登場しない) なので英訳本の取扱いが良いですね。
ロシア製著作リストでは当初連作の予定で、作者自身が続く作品としてUn Tripot clandesitn. – Disparu. – Le Portefeuille rouge. – La Mie de pain. – Les Diamants d'une femme honnête — La Cachetteというタイトルを挙げているという。(結局、発表されなかったようだ)
訳者さんは「実際に書かれたのはかなり初期ではないかと推測… 全体として、素描という感じがする」とおっしゃっていますが、素人の手記という設定なので手慣れてない感じをワザと出したのかも。
まあこーゆー細けえところは別として、面白い、興味深い作品です。
何たって(いつもと異なり粗筋を紹介しますが)
医学校を卒業したばかりの医者、23歳の私、アパートの隣人が奇妙。時間が不定期、勲章をぶら下げたりゅうとした格好だったりボロボロの服だったりして怪しい。ある夜中、血だらけで私の部屋に飛び込んできて治療を求めてきた。それで付き合いが深くなったが秘密を明かしてくれない。管理人も知ってるみたいだが教えてくれない。だがある日、私は冒険の同伴を許された。現場には指で書いた血のメッセージ!殺人事件だ!彼は探偵(刑事)だったのだ!
ドイルは無意識にパクっちゃったのかなあ…
この作品、とてもワクワク感があります。この後の展開も結構楽しい。(微笑ましい)
ガボリオやるじゃん!という感じです。今『ルルージュ事件』を読んでますが、大デュマの殺人事件版と言った感じで非常に流れが良い。
ところで『緋色』の先行作品として、この作品が挙げられていないような感じがするんですが(Stephen Knight著Towards Sherlock Holmes(2017)に本作への言及あり)私が知らないだけでしょうか?ドイルと言えばみっちょんさんのサイトを参照してる私なんですが、ホームズとタバレ爺(といっても五十代)の共通点が挙げられているだけのようです。
以下トリビア。フランス語は英語よりさらに読めないし、量も読んでないのでかなり怪しい事をあらかじめお断りしておきます。(翻訳の感じを知っていただくために長めに引用しています)
p2/1325 二十三歳のときであった---ムシュー・ル・プランス通りとラシーヌ通りが交差する辺りに住んでいた(j’avais vingt-trois ans – je demeurais rue Monsieur-le-Prince, presque au coin de la rue Racine)♣️いずれも実在の通り。パリ六区Odéon地区。パリ第五大学(医学部?)があるようだ。学生街なのかも。rue Monsieur-le-Princeは1851年4月命名、rue Racineは1835年以降か。(いずれも仏wiki情報)とするとこの話は1850年代なのか。
p2 二十三歳のときであった---ムシュー・ル・プランス通りとラシーヌ通りが交差する辺りに住んでいた(j’avais vingt-trois ans – je demeurais rue Monsieur-le-Prince, presque au coin de la rue Racine)♣️いずれも実在の通り。パリ六区Odéon地区。パリ第五大学(医学部?)があるようだ。学生街なのかも。rue Monsieur-le-Princeは1851年4月命名、rue Racineは1835年以降か。(いずれも仏wiki情報)とするとこの話は1850年代なのか。
p2 家具付きの部屋が賄い付きで月三十フランだった。今なら優に百フランはすることだろう(trente francs par mois, service compris, une chambre meublée qui en vaudrait bien cent aujourd’hui)♣️金基準1850/1903(1.01倍)、仏消費者物価指数基準1903/2020(2666.79倍)で合計2693.5倍。当時の1フラン=€4.11=1709円。月30フランは51270円。これが作品発表時1870には2673.2倍なのでインフレ率は1%程度。19世紀のインフレ率はあまり高くないようだが、家賃だけ急上昇したものか。パリ地区の人口は1836年100万人、1851年128万人、1872年185万人で急拡大している。(2022-2-25追記: ふと計算をやり直して見たら、ユーロ円換算時に大間違いをしている。1フラン=€4.11なら当時493円。なんで間違ったんだろう… なので30フラン=14790円)
p66 殆ど毎日アブサンを飲む時間になると、彼はルロワのカフェに来て私とドミノゲームをしたものだ(presque tous les jours, au moment de l’absinthe, il venait me rejoindre au café Leroy, et nous faisions une partie de dominos)♣️「アブサンの時間」って何?と思ったら「仕事を終え疲れきった労働者達が安価な逃げ道(アブサン)を求めてカフェなどに集う時間(午後5時からの数時間)は「緑の時刻 (Heure Verte)」と呼び習わす」(アブサンの凄いWEBページから。情熱に圧倒されます…)ということらしい。
p66 七月のある夜、金曜日の五時きっかりのことであったが、彼がダブル・シックスで私をこてんぱんに負かしていた最中(un certain soir du mois de juillet, un vendredi, sur les cinq heures, il était en train de me battre à plein double-six)♣️このsurはaboutのはず。ドミノの札は仏語でも英語表現なんだね。(特殊技の通称なのかも)
p92 オデオン広場で… バティニョールまで… 急いでやってくれ!御者は、その遠さに悪態を並べた(aux Batignolles... et, bon train! La longueur de la course arracha au cocher un chapelet de jurons)♣️距離にして5kmほど。最初、近すぎるので文句を言った風に受け取った私は近場タクシーのイメージ強すぎか。
p100 嗅ぎタバコの癖♣️キャラ付けの工夫だが、あまり効果を上げていない。
p151 血で書かれているMONIS…という文字♣️ダイイング・メッセージの嚆矢…なのかな?専門家の公式見解をよく知りません。
p186 パトリ紙の夕刊(un journal du soir, la Patrie)♣️1841創刊の日刊新聞。基調は第二帝政支持のようだ。
p196 特別な能力♣️今『ルルージュ事件』を読んでますが同じ能力のキャラがいた。
p223 カタロニア地方で使われる恐ろしいナイフであろう。掌ほど幅が広く、諸刃でしかも針のように尖った先端を持つ、あのナイフである……(un de ces redoutables couteaux catalans, larges comme la main, qui coupent des deux côtés et qui sont aussi pointus qu’une aiguille…)♣️カタラン・ナイフというのが定訳?特殊な形のフォールディング式でデザインが素敵だが、傷口からわかるかなあ… 当時流行してたのか。
p399 ピゴローさんとおっしゃいます。ですが、専らアンテノールと呼ばれておいででした。なんでも昔やっておられた商売の関係でそう呼ばれるようになったのだとか(Il s’appelait Pigoreau... mais il était surtout connu sous le nom d’Anténor, qu’il avait pris autrefois, comme étant plus en rapport avec son commerce)♣️Anténorはギリシャ神話でトロイの貴族らしい。理髪師関係ではないようだ。なんかフランス人って「あだ名」で呼ぶのに抵抗が薄い感じ。(←個人の感想です)
p407 理髪師(coiffeur)♣️「パリじゅうの別嬪さんたちの髪を…」と書いてるから「美容師」が適当か。英訳はhairdresser。
p407 百万フラン(pour un million)♣️具体的な金額というわけではなく「百万長者」みたいな用法か。17億円。(2022-2-25追記: 修正後の換算だと4億9300万円)
p486 スピッツ(ポメラニアン?)… 昔の運転手がよく飼っていたようなやつで、身体は真っ黒で耳の上に白い斑点がついていて、プルトンって名前(C’est un loulou, comme les conducteurs en avaient autrefois, tout noir, avec une tache blanche au-dessus de l’oreille ; on l’appelle Pluton)♣️翻訳文中に?をつける律儀な訳者。ただこの書き方だと訳注っぽくない。conducteurは時代的に(自動車の)運転手では無い。ポメラニアンは昔馬車の番犬としてダルメシアンと双璧、というのを知って(loulou de Poméranie—the good old loulou of the stagecoachと表現した本あり。the horse’s friendとあるので馬の護衛のようだ)「馭者」で間違いない。残念ながら英訳はHe’s a watch dog... quite black, with just one white spot... で済ませて犬種の言及なし。Plutonは冥王ハデスのこと。真っ黒からの連想だろう。
p603 使った拳銃(le revolver qui vous a servi)♣️時代的にパーカッション式かピンファイア式の廻転式拳銃と思われるが、デリンジャーのような廻転式じゃない拳銃も仏語ではrevolver。なので「拳銃」で正解。1850年代なら米国製コルト、ベルギー製ルフォーショーあたりか。
p862 青いダマス織のカーテン(rideaux de damas bleu)♣️ダマスカス地方発祥の「ダマスク織」が一般的。
p862 金髪の若い女… というより、正真正銘の金髪の若い女(une jeune femme blonde..., ou plutôt... une jeune femme très blonde) ♣️trèsは強調表現だが「実に綺麗な」という感じ?英訳はa young woman, with fair hair and blue eyes。北欧系ブロンド、という含意か。
p1133 なかなか化けるのが上手いものだ!(Jolie toilette d’instruction!) ♣️ toiletteはドレスの意味。instructionの意味が私にはよくわからない。「化ける」だと非難の意味が強すぎるような気がする。英訳はShe’s a clever wench.... she means to excite the magistrate’s compassion and sympathy(賢いヤツだ… 判事の同情を引こうとしている。instructionを「判事対策」と解して、やや説明調に訳している。なるほど... 一理ありますね)
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(2020-07-04追記)
そういえばBNF(Biblioteque Nationale de France フランス国立図書館)のWEBでは古い新聞を無料公開してたなあ、と思い出し、検索すると連載当該号がちゃんとありました。かなり明瞭な印面で、しかも無料でPDFダウンロードができちゃう…なんて素晴らしい!
そこで発見したのですが、連載1回目(1870年7月7日)は編集長Thomas Grimmの「明日から始まるよ!」と言う原稿入手の経緯を綴った予告だけの掲載。物語自体は7/8から章の数どおり12回連載です。Mémoires d’un agent de la Sureté(警視庁の密偵の回想)と言うシリーズ企画が明確な紙面づくり(『バティニョール』の連載ではMémoires d’un agent de la Sureté(1)と表記されている。続話のタイトルを紹介してるのは編集長でした…)なのですが、連載最後の7月19日の編集部後書きには「戦争が始まり今日で第一話の完結なので、いったんシリーズ連載は中止。事情が許せばすぐに再開します」普仏戦争が始まって、それどころじゃなくなったんですね。
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(2020-7-18追記)
『クイーンの定員1』文庫版収録の松村喜雄訳をやっと読めました!図書館で読んだので、以下は記憶に頼ったものです。
まず原書Dentu版は機構本で松村さんは苦労して手に入れた、と前書きにあった… 現在では初出本も初出の新聞さえ誰でも入手出来ると知ったら松村さん、喜んでくれるかな?
編集部の前説(私は誤読してたようだ。最後の方でプチ・ジュルナル紙に作者ゴドゥイユ氏が名乗り出て、無事連載開始となったことになってる)、作者の前書き、いずれもちゃんと翻訳してて良い。
p66 二倍のシックス♣️私は上でdouble-sixをフランスでも英語で書く、としたが、この綴り、フランス語(ドゥーブル・スィス)も同じじゃん!恥ずかしい… double-sixはドミノ牌セットのことなので「ドミノでコテンパンに」が正訳か。
p186 夕刊紙のパトリ♣️こちらが正解。BNFでも見てみた。1850年だと1部2スー(=85円)。「欧米の新聞は朝刊紙、夕刊紙いずれかの単独発行であり、アメリカではむしろ夕刊紙のほうが圧倒的に多い。」(ニッポニカより) 日本の朝夕刊セットは珍しいんですね…
p486 むく犬… 羊飼いが飼ってたような…♣️確かに羊飼いは羊をconduire(率いる)人だがconducteurと呼ばれるのかなあ。確かにloulouは語源「狼っ子」で特定の犬種を指すものではないようだが…
p862 ここはさらっと「金髪の若い女」と流してた。(冗長な繰り返し無し)
p1133 作法通りの服装♣️ああinstructionを作法ととったのね。こっちの方が正解かも。

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