ぼくの小さな祖国 |
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作家 | 胡桃沢耕史 |
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出版日 | 1982年03月 |
平均点 | 7.00点 |
書評数 | 1人 |
No.1 | 7点 | 人並由真 | |
(2019/09/03 19:34登録) (ネタバレなし) 1979年。還暦が迫る売れない小説家の「ぼく」は、何かに掻き立てられるように異国を放浪。そして成り行きで訪れた南米の小国で、三人の日系人に出会う。彼らは現政府の中枢に位置する者と、その周辺の二人。そんな彼らは、自分たちの親や先代たち日系移民が歩んだ長い道のり、そして自分たち三人自身の昔日を語り始めた。 旧ペンネーム・清水正二郎名義の著作群と決別して海外を放浪し、1977年から新たな筆名で作家生活の再スタートを切った作家・胡桃沢耕史。そんな胡桃沢耕史名義での著作の初期の代表作のひとつがこれで、第87回直木賞候補作品。 例によって元版刊行当時に北上次郎が「小説推理」誌上で激賞していた記憶があるので、いつか読もうとは思っていた一冊である。 物語の舞台は、劇中では国名も不明な、貧しい南米の小国(パラグアイがモデルという説もある)。実質的な主人公は十代、三十歳前後、四十代と、年齢設定や社会的立場を差別化した三人の日系人たちで、彼らの人生を大きく変えた昔日のある一連の事象、そして彼ら三人の人生の基盤となった日系移民の苦闘の現実を、作者・胡桃沢耕史本人の分身である小説家「ぼく」が聞き書きした形式でこの作品は綴られる。 かなり真摯に仔細に現実の実態を取材したのだろう、海外で一旗揚げることを夢見て海を渡った、半世紀以上に及ぶ日系移民の逆境(日本政府からは実質的には棄民として扱われ、その事実を戦前~高度成長時代の日本のマスコミは秘匿、一方で南米の現地では、半ば奴隷みたいな労働力を確保した程度の扱いをされる)。もはや日本も新天地も母国ではないと覚悟を決め、それでも現在その足で立つ南米の地を「祖国」として見据えて関わっていこうとする日系移民の意志と矜持(もちろんそんな境地に至れず、社会的に敗残していく者も山ほどいる)。そんな主題を背景に、舞台となる小国内での対立する二大政党の抗争に決着をつける、ある計画が進行する。 総体的にはとても味わい深い長編であったが、かたや、いったい何が起きているのかわからないホワットダニット的な興味が小説に深みを与えている一方、手の内をなかなか見せない作りが読み手(少なくとも評者のような)の緊張を弛緩させてしまう面もあり、その辺はちょっとデリケートな作品かもしれない。主人公トリオの本筋での関係の深化と、日系移民の苦闘秘話の方は充分に面白く読めたが。 それと、これは決して作品を毀損するつもりで言うのではないが、これだけ立体的な構成を用意した割には全体の紙幅が短すぎる。起承転結の「転」の部分を思いきり駆け足で済ませて、いきなり「結」に行ってしまったような食感の作りだ。ただし一方で、その辺は前述のホワットダニット部分の謎解きとあわせてこの小説のうま味になっている面もあるから、一概に否定はできないのだが。 終盤の展開は、主人公トリオの「祖国」への距離感をそれぞれに差別化した文芸が用意されていて、そこがとても心に染みる(いろいろ言いたいことはあるんだけど、それはここではとても書けないので、興味が湧いたら読んでください)。 思えば小説家「ぼく」視点で、ちゃんとラストに至る伏線というか布石も張ってあるんだな。 最後に細かいことながら、小説の基幹部となる日系の主人公トリオの叙述は若い順に「おれ」「ぼく」「私」の一人称が交代する形式で進行するのだが、さらにこの合間に彼ら三人の過去と現在を窺う小説家「ぼく」の一人称が挿入される。つまり「ぼく」がダブってしまうので、これがどうにも読んでいて気に障った。小説家(胡桃沢耕史の分身らしき人)の方は、「自分」とか「わたし」「僕」とかの標記でも良かったんでないの? |