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ミステリの祭典

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危険な森
私立探偵レオ・ハガティー

作家 ベンジャミン・M・シュッツ
出版日1989年04月
平均点6.00点
書評数1人

No.1 6点 人並由真
(2019/07/17 00:39登録)
(ネタバレなし)
 「わたし」こと、先の猟奇的な連続殺人事件で功績をあげて勇名を馳せたワシントンの私立探偵レオ・ハガティーは、上流家庭ベンソン家の奥方から、失踪した13歳の娘ミランダ(ランディ)の捜索を依頼された。だが打ち合わせの最中で主人のベンソンが依頼を一方的にキャンセル。しかし後刻、ベンソンは改めて娘の捜索を願い出た。ハガティーは情報をもとに関係者を訪ねて回るが、事件の陰に危険な気配を認めて、荒事用の頼れる相棒アーニー・ケンダルの応援を求めた。実際に、調査を続けるハガティーの前に事件から手を引くようにとの脅しが入るが、彼とアーニーは相手を撃退。そして事件はさらに深い闇を見せていく。

 1985年のアメリカ作品。レオ・ハガティーシリーズの第二長編で、本作の作中でも何回も話題になる事件=シリーズ第一作の『狼を庇う羊飼い』はネオハードボイルドの熟成期に登場した秀作という感じでとても良かった。同作の事件は相応にグルーミーで犯人像も苛烈だったが、そのキツさに見合う満足感は充分にあった。特に、主人公ハガティーと自分の娘の復讐に走るもうひとりの主人公といえる被害者の父親、そしてメインヒロインの女子大生ウェンディー・サリバン、この主要人物3人それぞれのキャラクターと互いの相関が今でも印象的だ(自分が前作を読んだのはかなり前なのだが)。

 それで今回は、少し前に家の中から読まずに楽しみにとっておいた本作が出てきたので、期待してページをめくった……が、こっちはまあ、悪くはないが、物語の結構も、登場人物の描き分けも、他のネオハードボイルド作品の、よくもわるくもパッチワークのようでイマイチであった(汗)。
 巻末で黒井玄一郎という方(すみません。よく知りません)が当時のネオハードボイルド分野の流れを大系的に俯瞰しながらかなり丁寧な解説を書いていてなかなか参考になるが、そこで指摘されるまでもなくハガティーとアーニーの関係はスペンサーとホークの相似形だし(アーニーは本長編が実質的なデビュー。もちろんこのコンビと先輩コンビとを比較すれば、微妙な部分での異同はいくつかあるが)、物語の中盤以降で暴かれていく現代的な病巣はほかのネオハードボイルド作家たちもごく自然に作品の材にしているし、終盤の葛藤の末の私立探偵の決裁も、あのシリーズのかの作品……のごとき、だし。

 まあ前作は若い時に、翻訳書をほぼリアルタイムで読んだから新鮮だったのかもしれないけれど、今では当時の尖鋭的なテーマや主人公探偵の立ち位置が、時代の中でありふれたものになってしまっている部分は否定はできまい。
 そもそも前述の黒井氏の解説でも、すでに、このハガティーシリーズはネオハードボイルドというジャンルがスペンサーやらモウゼズ・ワインやら名無しのオプやらサムスンやらタナーやらの有名キャラクターの輩出を経て円熟した中での後記ネオハードボイルド、第二世代である、旨の物言いをしており、その辺はまったく同感。
 つまり評者も、このハガティーシリーズは良い意味で、後出しの利の中から書かれた作品だと思うのだが(これに対し、意図的にネオハードボイルドの中で30~40年代正統派ハードボイルドへの先祖返りを図ったのはジョナサン・ヴェイリンあたりだと見る)、さすがにそこから20年も経つと、ああ、これはもう80年代ネオハードボイルドという名の新世代クラシックだな、という感慨が今回あらためて強かった。
 もちろんこの辺の気分(ネオハードボイルドだってもはや時代の中の里程だ)は、かねてよりなんとなく抱いていた思いではあるが、こういうかなり具体的な実感を伴ってこっちに訴えてくるとは予想していなかった? 

 まあこれはそういう時代のそういうスタイルの作品だ、という認識から始めるなら決して悪い作品でなかったんだけどな。前作がとても自分の思い入れのある作品だったので、なんとなく期待値のハードルが高すぎたのは事実であった。

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