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ミステリの祭典

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鉄条網を越えてきた女

作家 浦山翔
出版日1987年05月
平均点7.00点
書評数1人

No.1 7点 人並由真
(2019/07/01 15:36登録)
(ネタバレなし)
 1984年8月10日。ニューオリンズで、ポーランド系ユダヤ人の老女コルク・ヘレナが68歳で病死した。小規模な実業家として成功したヘレナだったが、しかし彼女はそんな素性にしても尋常ではない250万ドル前後という莫大な遺産を遺しており、その内の150万ドルをアウシュビッツ博物館、そして残りの100万ドルを渋沢栄一の秘書だった日本人・黒岩喜一もしくはその遺族に贈与すると遺言状にあった。ヘレナの遺言を託された弁護士・細川悦造から故人の背後事情を調べてほしいと請われたのは、細川の友人で大新聞「全国日日新聞」の国際ドキュメント記事担当の記者・清瀬徹準。清瀬は上司の了解のもとに会社の機動力を使い、自らも欧州に赴いて調査を進めるが、それと前後してヘレナの部屋からは、ヨゼフ・メンゲレほかナチス党員への復讐・殺人計画のメモが見つかった。やがてそのメモに名前の書かれていた元SS党員が本当に最近、死亡している事実が明らかになる。

 第6回(1986年度)横溝正史賞の佳作入賞作品(同年の本賞は、服部まゆみの『時のアラベスク』)。
 第二次大戦時のナチスの非道告発、さらにはロシア革命時の戦災孤児たちの逸話にまで遡る現代史ミステリで、主人公・清瀬が物語のキーパーソンであるヘレナの過去の軌跡を追うのと並行して、変死? した二人の元SS隊員の謎、さらには分不相応すぎる巨額の遺産の謎という現在形のミステリ要素がストーリーに絡んでくる。
 推理要素はあまりなく、主人公の綿密な調査のなかで現代史の悲劇、そして同一人物でありながら人生のある局面においては時には神、時には悪魔にもなる人間の恐ろしさと悲しさが浮かび上がってくる筋立て。それでも最後にはちゃんと事件の真相が暴かれる流れではあり、その辺はぎりぎり殺人が主題のミステリらしい。

 本作の特筆事項は、あの杉原千畝の晩年にきちんとご本人に取材した作品ということ。おそらく本書の執筆中にご当人が亡くなっている(1986年7月31日)タイミングだから、ミステリ分野ではその意味でも、かなり稀少な一冊となろう。ご当人も奥様ともども「杉山千里」(とその夫人)という名前で劇中に登場し、主人公の清瀬に情報を与えている。
 なお、本書刊行時の読者との仲介を果たすため、主人公が無知になるのは便宜的に仕方がないのだが、2010年代の今なら小学生でもその名を知っている現代史の偉人・杉原千畝の名前を、海外記事担当の全国紙の中堅記者が対面するまでほぼ知らなかった、というのは……時代である。

 情報量の多い物語を捌くため、話が潤滑に進みすぎることに若干の違和感もないではないが、その分、さすがにリーダビリティは高く、一息に読める。
 分類すればガーヴの『ヒルダ』や湊かなえの『リバース』のような、冒頭の物語開幕の時点でキーパーソンがすでに死んでいる<故人もの>ということになろうが、その辺の切り口から賞味しても悪くはない。
(ただ、ちょっと小うるさいことを言えば、某キャラクターの行動というか決定で、作者も主人公も何も言わず看過したまま終わっちゃう部分で、これはどうなんだろう…という所も一か所、あるのだが…。)

 作者はミステリは結局この一本だけしか残さなかったようだが、先に書いた<80年代における、杉原千畝という偉人の功績の受容史、そのひとつの資料>という面も含めて、古本屋とかで安く買えたら購入しておいてもいいかも。

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