罪ある傍観者 マックス・サーズディ |
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作家 | ウェイド・ミラー |
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出版日 | 1985年03月 |
平均点 | 6.00点 |
書評数 | 1人 |
No.1 | 6点 | 人並由真 | |
(2019/06/26 19:34登録) (ネタバレなし) 1946年2月4日の夕方。元警官で私立探偵の経歴もあったが、今はサンディエゴの安宿「ブリッジウェイ・ホテル」で常勤のホテル探偵として働くマックス・サーズディは、4年前に別れた妻ジョージアの突然の訪問を受ける。ジョージアはサーズディとの間にできた息子トミーを連れて開業医のホーマー・メイスと3年前に再婚していたが、そのホーマーが学会に出かけて留守の間に、何者かが当年5歳のトミーを誘拐したのだ。犯人は、追って連絡する、警察には知らせるなとの書き置きのみを残していた。夫ホーマーに連絡が取れないジョージアは、困り果てたあげくに前夫のサーズディを頼ってきたのだ。現在のメイス家は医者と言っても、共同経営者と診療所を開業したばかりで貯金もない。となると謎の犯人の狙いは、何かホーマーの握る情報か? あるいは彼の沈黙か? サーズディは窮地の息子を救うため、メイス家の周辺を調べはじめ、同時に、ブリッジウェイホテルの支配人で地元の裏社会にも通じた老女スミティからも情報を求める。だが事件はトミーの安否とはまた別の所で、予想もしない連続殺人へと発展していった。 1947年のアメリカ作品。1950年代から日本版「マンハント」の紹介記事などで、その活躍のみ日本のミステリファンに知られながら、実際の翻訳書の刊行は1985年の本書まで待たされた、合作作家(後年に相棒の片方が逝去し、単独で活動)ウェイド・ミラーによる私立探偵マックス・サーズディもののシリーズ第一弾(なおサーズディものの長編は、これ以外に一本だけ「別冊宝石」に一挙掲載の形で先行して邦訳がある)。 ちなみにウェイド・ミラーの別名義が、数冊の警察小説ジャンルの翻訳があるホイット・マスタースン(マスターソン)なのも世代人ファンには有名。 評者は今回、本書巻末の小鷹信光の解説を読んではじめて(あるいは改めて) ①マックス・サーズディものの長編は全部で6作あること(つまりそのうちの二作のみ既訳)。 ②ただしその6長編は、さらに大きな枠組みのシリーズ「サンディエゴシリーズ」全7作の真部分集合的な括りであり、第一作目にはサーズディが未登場。この第二作『罪ある傍観者』から彼がシリーズの柱になったこと(要はガボリオのルコックみたいなものだな~厳密には向こうは、脇役から主役化だけど)。 ③サーズディのシリーズは単にエピソードの数を重ねていく事件簿の形式に止まらず、サブキャラクターとの絡みなどにおいてある種のシリーズ構成的な仕掛けがあったらしいこと。 ……などなどの情報を知る。特に3の要素は面白そうだが、ナンにしろ翻訳の数が少なすぎるので、その妙味を十全に知ることができないのは実に残念。 ただまあ、実はそんなサーズディシリーズの完結編である第6本目が、先に書いた、別冊宝石に翻訳掲載された長編『射殺せよ!』であり、つまりコレは読もうと思えば日本語でいつでも読める(評者も本は確実に持ってはいるので、そのうち読んでみよう)。 それで話を戻して本書『罪ある傍観者』のレビューというか感想だが、作者ミラーのコンビの目線はミステリの創作者としてはそれなりに高い位置にあり、主人公の探偵の息子がさらわれたサスペンスに物語の焦点を絞るかと思いきや、そちらはそちらでもちろん重大な災厄として主人公にも読者にも意識させつつ、その傍らで浮かび上がってきた別の事件の方にストーリーの軸足を少しずつ移していく。このあたりの話の組立ては、なかなか良い。 犯罪にからむ登場人物のキャラクターがやや弱く、もうちょっと印象的に書き込んでればいいものを、と思う部分もないではないが、いつもの評者のように登場人物のメモを作りながら読めば特に大きな問題も無い。事件の構造のなかでそれなり以上に比重の大きいキャラクターの何人かが、サーズディと出会う前に死んでしまい、読者にも印象を残さない辺りはあまりよろしくないけれど。 ストーリーはテンポ良く進み、中盤で、仕事を世話してもらっているスミティお婆ちゃんをワトスン役のように見据えながら、サーズディが自分が考えた事件についての推理を語り、整理していくのも、私立探偵小説の枠内で謎解きミステリとしての興味を求めたい作者の狙いに沿っている。 事件関係者とのディベートの中で、相手の思惟を自分の計算通りに操縦していく(悪事としてではなく、あくまで便宜的な意味でだが)サーズディのキャラクターのしたたかなたのもしさもいい (しかしサーズディの旧友である地元警察のクラップ警部補とか、本作の警察陣は本当に、サーズディに親身だわ。まあ実はこの人の方が、もともとのシリーズ第一作の主人公だったみたいだが)。 ただラストは……残念ながら、作者がこの作品を丁寧に、きちんとした謎解きもサプライズも設けたミステリにしようと務めた分だけ、却って、先が読めてしまった(汗・涙)。 50年代ハードボイルドの少なくない作品は実のところはた目には意外なほど、折り目正しい謎解き&フーダニットの興味を探っているので(その上で伏線が足りなかったり、ロジックが甘かったりすることもままあるが)、残りあと数十頁……この作品がきちんとミステリとして着地するには……というところでクライマックス以前に物語の底、作品の仕掛けが覗いてしまうことがあるが、今回は正にソレだった。実を言うと、この河出の「ザ・アメリカン・ハードボイルド」叢書の中には、他にもそういう作品が……(これはこれ以上言えない)。 とは言いながら、これはたぶん70年前のリアルタイムで読めばそれなりにインパクトのあった、よく出来た作品だったことも分かる気がする。ある意味ではあまりにも真っ当すぎて、純朴なミステリすぎて、今ではちょっとキツくなった……そんな種類の作品ではある。 そこで、さっきの話題「マックス・サーズディものは、シリーズ構成そのもので何らかの勝負をしていたらしい」に戻るのだが、もしかしたら作者のミラーたち自身も「私立探偵小説の枠内で、ミステリらしいミステリを書いていてもいつかはきつくなる、ならば……」と早くから気づいて、自作のシリーズ探偵の行方に何かしらの文芸性を与え、シリーズの流れに何らかのギミックを盛りこんだのか……とも仮想した。 もしも本当にそうならば、正にそういう作者の狙いこそをこちらもしっかりと実感してみたい、と思うんだけどね。 まずはそのうち、くだんのシリーズ最終作『射殺せよ!』を読もうか。 |