アシャンティ |
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作家 | アルベアト・バスケイス・フィゲロウア |
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出版日 | 1979年03月 |
平均点 | 7.00点 |
書評数 | 1人 |
No.1 | 7点 | 人並由真 | |
(2019/04/27 12:33登録) (ネタバレなし) 「コロマント」(ケンカ好き)の異名で知られるアフリカ原住民の勇猛な一部族アシャンティ族。その族長にしてソルボンヌ大学の教授であるママドウ・セーガル。そしてそのセーガルの娘でミュンヘンの大学に学び、オリンピック選手でもある20歳のアフリカンの美女ナディアは、カメラマンの白人青年デビッド・アレクサンダーと熱い恋に落ちて妻となる。西欧の文化に触れながら、いずれは社会運動家としてアフリカの困窮する同胞のために尽力したいと思うナディア。だがそんな彼女は故郷のアフリカで、数十年のキャリアを誇る奴隷商人スレイアン・ロラブの一味に捕まり、ほかの十数名の黒人奴隷とともに苦行の旅路を強いられる。デビッドは最愛の妻を奪回するため、人身売買犯罪に対処する公的な機関に協力を願った。さらに彼は、より実戦的な民間有志の奴隷解放組織「白い部隊」に支援を求め、自らもナディアのいるはずの広大な砂漠へと乗りだすが……。 1975年のスペイン作品。 作者フィゲロウア(本邦訳書では「A・V・フィゲロア」の著者名表記)は、1978年にはじめて長編『自由への逃亡』で日本に紹介された。同作は<逃走者と軍事犬>という組み合わせで追われる者と追うものとの緊張と憎悪そして奇妙な絆を語り、その密度感の高さで我が国のミステリファン、冒険小説ファンの反響を呼んだ(特に北上次郎などから絶賛を浴びている)。 それで本書はその翌年1979年に、リチャード・フライシャー監督(『トラ・トラ・トラ』『ミクロの決死圏』ほか)の新作映画『アシャンティ』の公開にあわせて翻訳された、同映画の原作小説。やはり本作も当時、同じ北上次郎が高い評価を与えていたはずである。 評者としては大昔に『自由への逃亡』を読んで相応のインプレッションを受けて以来、数十年振りのこの作者の著作を手にした(といいつつ、翻訳はこの二冊しか無いハズ)が、紙幅的にはかなり薄かった『自由への』と比べて、本書は小さめの活字がしっかり二段組、総頁も280頁以上と、そんなすこぶる本格的な仕様の長編冒険小説である。 プロットそのものはナディアを奪回するためのデビッドと協力者たちの追跡行、それに悪党側に生じる内紛と、ナディアの脱出へのトライ……など、きわめてオーソドックスだが、登場人物の書き込み、細部の映画的な見せ場の配置、さらには20世紀後半のアフリカの暗部への肉迫……などなど、小説として賞味できる要素は盛りだくさん。 特に「白い部隊」のリーダーである青年アレック・コリングウッドが奴隷解放の義勇兵になった理由が、かつて奴隷商売で財を為した先祖の貴族の罪悪を雪ぐため、などという文芸が心に響く。さらに、追い求めるヒロインのナディアに接近しながらあと一歩及ばずに倒れていく義勇の戦士たちの描写とか、丁寧な筆致で綴られた登場人物たちの退場劇は念頭に残るものが多い。 ちなみに、これは密な取材の結果として小説に取り入れられた描写らしいが、アフリカの裏社会には痩せ衰えて連れられてきた奴隷たちを、彼らを買い上げる富豪に提供する前に、体調を管理してしっかり健康にしておく「太らせ屋」という専門職? もあるそうで、この辺りのリアリティには、人間のおぞましさを痛感させられてゲンナリする。奴隷それぞれが1㎏太るたびにいくら、と談判する辺りは悪趣味なジョークのようだ、 (ところでこの作品は、そんな評者みたいな<文明国という安全な彼岸の場から、対岸の火事であるアフリカの病理に義憤を抱いたり哀れんだりする世界中の人々の傲慢さ>にもきちんと釘をさしており、そういう意味でもスキがない。) いろいろな思いを心に刻んで読み終えることは必至の一冊だが、全体としてはとても満腹感のある、良い意味で曲のない、エンターテインメント性の強い冒険小説でもある。フィゲロア(フィゲロウア)の作品を、もっと読みたくなったが、これから翻訳される機会などは望めるだろうか? なおくだんの作者・フィゲロウアはスペインの映画人でもあり、前述の『自由への逃亡』は2006年に作者みずからのプロデュース、シナリオで<サイボーグ犬が逃走した政治犯を追うSF映画>としてリメイク(映画化)。日本では『ターミネーター2018』の題名で映像ソフトとして発売されている。 作者名をWEBで検索してたら、どっかで観たような内容の映画が目に付き、そしてそのスタッフにこの名前が出てきて、二重に驚いた(笑)。 |