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ミステリの祭典

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神州纐纈城

作家 国枝史郎
出版日1968年01月
平均点10.00点
書評数1人

No.1 10点 クリスティ再読
(2018/12/24 23:39登録)
雨村不木正史といった面々は、乱歩の先輩/後輩といった見方はできても、「ライバル」とはちょっと呼び難い人々だ..と言ってもそう不当ではないと思うのだが、「乱歩のライバル」っているのか、というとある意味国枝史郎がそうなんだね。この人も独自に「探偵小説」を実現したけども、不木を巡って乱歩と確執してたりして、不仲だったために乱歩中心の「日本探偵小説史」からは抹殺されたという経緯がある。
しかも、最良の乱歩がエロ・グロの絶頂でそれが漆黒の美に反転するさまを実現できたのと同様に、国枝史郎の本作も、グロテスクの極みでそれが宗教的で荘厳な美に転じる瞬間を実現できている。戦前の暗黒文学の頂点の一つと呼ぶべき、唯一無二の傑作である。乱歩のライバル、と呼ぶ資格は十分だと思うよ。
本作の登場人物は、すべて極端に情念を突き詰めた異形の者ばかりである。一方に聖の極みでそのために常に自己を恥じざるを得ない光明優婆塞がいて、不浄の極みとして人の生き血を絞って纐纈布を製造する纐纈城主は、「人恋しさ」のために甲府を訪れて、自身が罹患する奔馬性癩を城下に猖獗させる...がそれは

神聖とは「二つ無い」謂いであった。それは「無類」ということであった。神が「唯一」でなかったなら、決してそれは「神聖」ではない。(略)仮面の城主の癩患は、世界唯一のものでった。

とされる「神聖病」でもあり、癩者たちによる「列外のアナーキズム」と呼べるような「逆説的なユートピア」さえ示唆するような光景すら描かれているのである。極端に突き詰められた情念が、ここではすべてが裏返しになる、戦慄すべき価値転倒の小説なのだ。
それゆえ、登場人物たちはそれぞれの情念に因われつつ、実に熱く自らの生き様を探っていく。

懺悔しろとは餓鬼扱いな!これ売僧、よく聞くがいい。懺悔は汝の専売特許ではない。ありとあらゆる悪人は皆傷しい懺悔者なのだ。懺悔しながら悪事をする。悪事をしながら懺悔する。懺悔と悪事の不即不離、これが彼らの心持ちだ。同時に俺の心持ちだ。懺悔の重さに耐えかねてのたうち廻っている心持ちが、汝のような偽善者に易々解って堪るものか。

この魂の熱さ、燃焼力が本作の最大の動力である。本作を読むと「ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」と歌った宮沢賢治の同時代を感じるのは評者だけだろうか?
本作は実のところ未完である。しかし、当初主人公のように見える土屋庄三郎が無意識のまま地底の河に流されるあたりから、物語は不思議と静止にむかって「徐々に止まって」いくかのようだ。だから、本作が纐纈城主の遅れ馳せな死で中絶するのは、何かここで時が凝結するかのような印象を与える。すべてが投げ出され、あらゆる問いは一時に氷結し、世界と人間の謎はそのまま残される。それが「悟り」?
三大奇書とは言うけれど、アンチミステリならば(お望みなら「匣」を加えて)四大名作でいいいんじゃない?と評者なんぞは思うわけで、暗黒文学の奇書、と呼ぶのならば評者ぜひとも「家畜人ヤプー」と本作、そして「死霊」を加えて六大奇書、と呼びたいと思っているよ。本作の熱量値は、それほど高い。
(そのうち作品社の「国枝史郎探偵小説全集」を何とかしたいと思ってます...)

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