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ミステリの祭典

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片隅の迷路

作家 開高健
出版日1962年01月
平均点7.00点
書評数1人

No.1 7点 人並由真
(2018/09/08 14:37登録)
(ネタバレなし)
 その年の11月5日の早朝。西日本のとある県の県庁所在地で、農機具店の主人・山田徳三が殺される。殺害犯人は同家に押し入った二人組の強盗と思われたが、捜査陣は店に住み込みの少年店員2人、さらには同家の娘で9歳の少女・道子の証言から、犯人は徳三の内縁の妻で道子の母、洋子だと認定。洋子は逮捕され、起訴された。だが公判中に、道子が担当の山口検事から偽証を強いられたと表明。世間の注目が集まる中で、洋子は冤罪を主張したまま刑務所に収監された。徳三の先妻の娘で洋子を実母のように慕う女子高校生の竜子が応援する中、洋子の甥の青年、浜田流二は洋子の無罪を証明しようと奔走する。だが最高裁まで審議を続ければ、経済的に家族の多大な負担になると考えた洋子は悔しさのなかで上告を棄却。しかし流二はその後も事件の洗い直しを諦めなかった。やがて思わぬ展開が……。

 1961年に「毎日新聞」に半年間にわたって連載された作品。内容はあらすじを見ればわかるように、昭和史に残る冤罪裁判の事例として名高い、1953年の現実の事件「徳島ラジオ商殺し事件」を題材にしたドキュメントノベルである。モデルの人物の名は小説内の架空のものに変えられているが、大局の流れは基本的に現実のものに立脚するらしい。

 大昔に日本語版「ヒッチコックマガジン」のバックナンバーを古書で入手し、毎号の当時の新刊評を一冊ずつ楽しみに読んでいたところ、本作が最高クラスの評価を受けていた記憶がある。それゆえいつか読みたいと思っていた一冊だった。とはいえ作者が芥川賞作家の開高健でしかも題材が真摯なテーマゆえに、これはさぞや歯ごたえもある内容だろうとやや気後れしていた。しかし今回、一念発起して手に取ってみたところ、思いのほか文章は平明だし、小説としてのリーダビリティも申し分なくスラスラ読める。例によって、案ずるよりなんとやら、だった。

 洋子の有罪を恣意的に決めつけた山口検事の判断や、彼や捜査陣から受けた軋轢のなかで偽証に及んだ証人たち。それらの過ちや心の弱さが雪だるまのように累積し、罪もない一人の女性とその周辺の市民、さらには事件に際して証言を求められた人間たちの人生が歪んでいく恐ろしさと悲しさ。現実の当事者の方々の無念や悔しさは推してあまりあるものがある。
 しかしそれでも小説としては、中盤からの実質的な主人公となる青年・浜田流二の百歩進んでは五十歩下がる奮闘の繰り返しなどをはじめ、どっかユーモラスな味わいを感じるのがこの作品のキモ。けれどもそんな口当たりの良さだからこそ、責任者の所在が巧妙にうやむやにされ、力のない一般人が泣き寝入りを当たり前に強いられるやるせなさが本を閉じる最後の瞬間に、改めてじわじわと心に染み込んでくる。
 裁判員制度の適用や再審弁護団の積極的な活動など、当時と現在では裁判事情も少なからず違うところもあるが、21世紀の今、手に取っても、インパクトとある種の読み応えは十全であった。
 これをちゃんとミステリとして評価した前述の「ヒッチコックマガジン」も、本書を創元推理文庫のレーベルに加えた東京創元社も「よくわかってる」、ミステリの幅広い裾野ののなかにはこういう作品もあるんだよ、と強くうなずきたい。
 実は大筋は10年くらい前にCSで観た本作の映画版を通じて記憶していたんだけどね。洋子役が奈良岡朋子(『太陽にほえろ!2』の「署長」)で、読んでいく内に映画の細部も脳裏に甦ってきた。録画DVDを引っ張り出して、そのうちまた観てみようかしらん。

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