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ミステリの祭典

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奥のほそ道

作家 リチャード・フラナガン
出版日2018年05月
平均点9.00点
書評数1人

No.1 9点 小原庄助
(2018/08/02 09:06登録)
この物語は第二次世界大戦中、日本軍がタイと現在のミャンマーを結ぶ泰麺鉄道の建設に際し、多くの捕虜を労働に従事させた史実が基となっている。その過酷な状況を生き延びた著者の父親の体験談を題材にしているだけに、描写はあまりに強烈だ。
しかし、これはあくまでも小説であり、戦争の悲惨さだけを描いたものではない。それは人間の愛と正義の不確かさを追求した物語だ。オーストラリア人軍医の主人公ドリゴは、戦地に赴く前の短い期間に叔父の若き妻エイミーと関係を持つが、このことが彼の生涯を大きく左右する。
こうして、残酷な捕虜体験と一人の男の愛の物語が交錯するなか、なぜタイトルが松尾芭蕉の「奥のほそ道」なのか。
それは、密林の中に建設された鉄路のイメージとつながる一方、捕虜たちを統括する日本軍の指揮官が残忍さと裏腹に俳句を詠む事とも重なる。その不可解極まる二重性は読者を混乱させるが、またこの小説を読み解く鍵ともなる。
そこから見えてくるのは、捕らえる側にも捕らわれる側と同様の苦悩があること。つまり日本軍の側も別の意味で捕虜の身なのだ。
「人は人として、雲は雲として、竹は竹として」自由に生きることを望む。しかしその努力もむなしく、すべては「水泡に帰し」、「帝国の夢と死者の跡には、丈高い草が茂るばかりだった」という描写は、芭蕉が奥州平泉で詠んだ句「夏草や兵どもが夢の跡」を思わせる。ヒーローとして復員したドリゴだが、エイミーの影を引きずるその人生は不誠実なものであった。そんな彼の姿とも重なり合う。
本書の冒頭には、ホロコーストを生き延びた詩人パウル・ツェランの「お母さん、彼らは詩を書くのです」が紹介されている。アウシュビッツ以降も、われわれは詩に救済を求めるしかないのか。それは蛮行を正当化しなければならなかった日本兵だけの問題ではない。結局、人はみな何かの捕虜として人生を歩み続けるしかないようだ。

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