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ミステリの祭典

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パイド・パイパー―自由への越境
旧邦題『さすらいの旅路』

作家 ネビル・シュート
出版日2002年02月
平均点8.00点
書評数1人

No.1 8点 人並由真
(2019/06/04 02:23登録)
(ネタバレなし)
 1940年の後半。戦時下のロンドンの社交クラブで「私」は、70歳くらいの現役を引退した元弁護士ジョン・シドニー・ハワードの談話を聞く。それは彼がこの夏、ドイツの侵攻を受けたフランスで体験した、子供達を連れての逃亡の旅路の冒険譚であった。

 1942年のイギリス作品。作者ネビル・シュートは終末SF映画として名高い『渚にて』の原作者。
 本作は、第二次世界大戦の前半、ヨーロッパのジュラ山脈を物語の起点に、なりゆきから知人の2人の子供を預かって母国・英国への逃亡行を続ける主人公の老人ハワードの姿を語る。旅路のなかで彼の周囲には、さらにいくつかの事由から保護しなければならない子供たちが一人、また一人と増えてゆき、その経緯と現実がハーメルンの笛吹き男を連想させるので、この題名(原題「PIED PIPER」)となる。
 時にスリリングに、時にユーモラスに紡がれる物語の基調には、敵味方を問わず多くの人民から平穏な日常を、そして心の理性とモラルを簒奪する戦争への嫌悪感があり、さらに力強い人間賛歌があるのだが、もちろん人間の善性ばかりを都合良く並べ立てたストーリーではない。大半の登場人物は、終盤に登場するこの物語の中の一番の危険人物っぽいキャラクターまでも、完全な悪でも善人でもなく描かれる。また21世紀の作品なら悪い意味で作中の苛酷なリアリズムを追い、ひとつふたつぐらい子供たちにも容赦のない場面を挿入したくなるきらいもあるのだが、本作は戦場の残酷さ、苛烈さをしっかり語りながらも、子供や老人に直接的な残忍な仕打ちを与える、扇情的な作劇に書き手が酔うような愚は犯さない。語るべき主題の軸を抑えながらも、ちゃんと品位をわきまえた作品だ。

 忍耐と誠実さを武器に戦場の中の旅路を突き進む主人公ハワードの姿は実に魅力的。彼に匹敵するフィクション上の高齢男性ヒーロー(主人公)といえば、評者の知る中では、山田風太郎の『幻燈辻馬車』の干潟干兵衛くらいのものか。個性を書き分けられた子供たちのキャラクターも、物語後半に登場する某重要キャラクターもとても良い。終盤、ハワードとその当該キャラの別れの際のセリフは、前向きな未来を展望するという意味で、クリスティの『茶色の服の男』のあのシーン(レイス大佐へのアンのあの一言の場面)までも思い出した。
 物語は回想形式ではなく、全編をハワードの視点を軸にしたリアルタイムで語った方がすっきりするのではないか、という感じもないではないが、たぶんその辺は現実に大戦が継続中の状況で、この冒険行を一歩引いた半ばメタ的な足場から見つめたかった作者シュートもしくは出版関係者の思惑であろう。だったらこちらは特に何も言うこともない。
 老若男女、多くの人に読み継がれていってほしい名作。

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