皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
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レイ・ブラッドベリへさん |
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平均点: 7.30点 | 書評数: 33件 |
No.4 | 7点 | アルカトラズ幻想- 島田荘司 | 2015/02/22 18:28 |
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作者の島田荘司さんはビートルズがお好きだと、あるエッセイで読んだことがある。
井上夢人さんと一緒に、ビートルズのナンバーを何曲も歌い続けたことがあるそうだ。 (「ホントか? なら、その出典をだせよ!」とのツッコみはご勘弁ください。 昔の事なので、何で読んだかは、もうスッカリ忘れてしまいました。汗) 島田さんの作品「ネジ式ザゼツキー」には、ビートルズのアルバム「アビーロード」に入っている曲名と 同じ名前の「サン・キング」なる人物が登場する。 また、「ネジ式―」の冒頭には、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」の歌詞を連想させる 幻想的なシーンが描かれている。 (この本―自分は講談社ノベルス版を持っているのだが―の奥付の前のページに 作者は日本音楽著作権協会の許諾を受けて ”LUCY IN THE SKY WITH DIAMONDS” の歌詞を 使用したことが明記されている) それからビートルズには「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」という名曲がある。 彼らはこの曲を、アレンジやテンポを変えて何回かレコーディングした。 最終的には「テイク7」を採用と決定したが、その数日後、作曲したジョン・レノンが 「前半はテイク7のままとし、後半部をヘビーな音の『最終テイク』にしたい」と要求したそうだ。 ところが、最終テイクのものはスピード感を出すために、キーを半音上げて演奏している。 また、チェロやトランペットも使ってサウンドに厚みを加えている。 ――キーもテンポも違う二つのテイクをどのようにして一つの曲とするのか? この難題をプロデューサーのジョージ・マーチンは見事に解決した。 後半部のテープスピードを徐々に下げていき、キーが合ったところで二つのテイクを繋いだのだ。 この曲をよく聞いてみると、開始から一分後にベースギターがなくなり、チェロのフレーズに変わっている。 またギターのアルペジオもなくなっている。 しかし、それらが何の違和感も感じさせず、最初から計算したアレンジであるかのように自然な曲に 仕上がっている。 さて、以上で「長い長い前ふり」は終わりです(笑) ここから、ようやくこの作品の感想となります。 実はこの物語も、作者はある個所で、二つのものを「繋いで」います。 それが何とも巧妙に、また、ひっそりとなされているので、読者はすっかり「パンプキン王国」の存在を 信じる(?)ことになります。 では、その「繋いだ」箇所とは一体どこなのか? なくなった「ベースギター」に相当するのはどれで、現われた「チェロ」はどの部分なのか? ――そのようなことを探してみるのも、また一興だと思います。 それから自分の読後の感想は、まさにkanamoriさんの書かれたものと同様です。 (手を抜いたわけではありません。全く「そのとおり」だと同感致します) 最後にひとつ…… 島田荘司さんといえば「剛腕」とか「驚愕の物理トリック」などの褒め言葉が浮かびますが…… ……自分はそれに加えて、「とても文章が上手な」「叙述トリックの名手」という一面もあると思っています。 |
No.3 | 7点 | 涙流れるままに- 島田荘司 | 2008/04/01 23:38 |
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主人公が幼い女の子を抱きしめる場面で
思わずオイオイと 呼びかけたのでもなく ツッこんだのでもなく 泣いてしまったのは 父性を掻き立てられたためか。 庇護してくれる存在がいるべきことも知らず ただひたむきに健気に生きていく幼子を見て 胸を揺さぶられない男はいないだろう。 自分の人生が 堪らなくみすぼらしいものに思えたとき このような存在を知ってひとしきり泣いたあと なおまた己が生きていく力を与えられたことに気づいて これを護るため 犯罪に手を染める男が現れても それは充分理解できる。 だがまあ主人公も 女の子だから抱きしめたのであり これが男の子だったなら 「人生 けっこうハードだぜ。 くじけずに生きろよな」位ですませたのかもしれない。 と あわてて冷淡さを装ってみる。 |
No.2 | 10点 | 魔神の遊戯- 島田荘司 | 2007/09/29 23:07 |
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文庫版が出ていたので買い求め、再読したのだが、初読の時には気づかなかったことがある。
まず、スコットランドの片田舎が舞台であること。 御手洗の「海外もの」で、「ハリウッド・サーティフィケイト」は、事件の猟奇性や犯人消失の謎が、いかにも現代のアメリカを思わせるものだった。また「摩天楼の怪人」は、20世紀初頭のマンハッタンでの高層ビルをプラットフォームとした謎だった。だからどちらの作品も、彼の地を舞台としたことはごく自然に思えたのだ。 一方本作は、ユダヤ人であるロドニー・ラーヒムとその民族の神話を基調にしており、ネス湖のほとりにある寒村を舞台に、リンダやミタライが登場してきてもおかしくはない。 だが再読して気がついたのだが、時間を巧妙に織りなしたこの物語の舞台として、きっと「日本」から隔絶した異境の空間が必要だったのだ。あたかも、空間と物体を手品のように操った「占星術殺人事件」においては、昭和11年という過去の時代設定が必要だったように。 そういえばこの作品は、死体の一部のバラ撒きという点で「占星術-」を思わせる。共に物語の前半で、登場人物たちが、あれこれ犯人像を推測する会話を交わしている。両方の作品から台詞を抜き書きすると、こんな感じだ。「犯人がホモか女だったからかもしれない」「そうか!女だ…こいつは女だぜ」「それとも女かな」「だが女、ならいいんだけどな」「子供っていうのはどうかな」 この物語には、バーニー・マクファーレンという作家が書いた小説(なのか草稿なのか、はたまた独白なのかは不明だが)と、ロドニーの手記とが交互に配されている。そして双方の記述内容が重なる時、それまで曖昧だった事件の骨格が忽然と立ち現れる。さらにその後、ロドニーの手記に記された「12月5日の殺人」は、バーニーの記述と「1日のズレ」を生みだし、読者の思い描く予定調和を乱して、物語の進行に一条の波紋を巻き起こす。 しばらく前に、東野圭吾さんの「容疑者Ⅹの献身」を巡り、「本格」ミステリ論争が起きたそうだ。僕は浅学のため、どのように決着したかは知らないのだが、本作についてはもう5年も前に、フリップ村上さんがこの「ミステリの祭典」の中で、同様の指摘をされている。またトリックの構造については、文庫版の解説で岩波明氏が、「本書はトリヴィアルな細部にこだわる新本格ファンをにやりとさせる試みを数多く含んでいる」「ここに至ると本格ミステリの巨人として君臨する島田氏の余裕と遊び心を感じずにはいられない」と述べている。 僕も岩波氏の意見に与みしたい。だからこれを受け、「この作中に現れるトラ(タイガー)はE・クイーンの『Yの悲劇』に出てくるマンドリンに相当するのか。もっとも、あちらは犯人を特定する手掛かりとなるのだが、こちらの方は、キャノン村の場所をミスリードする材料となっているんだな」などということを、いろいろ想像するのはとても楽しい。 島田さんの圧倒的な筆力が「差別」や「蔑み」に向けられると、読んでいる僕の心はそれに同化し、重く沈んでしまう。 ところで、この文庫本には出版社の「新刊のお知らせ」が挟まれていた。そこにはこの本のタイトルと著者の名前と共に、額縁に入れられた一枚の絵画があった。そして、そこに描かれている箱庭のような風景と、どこかに可愛らしさを残した怪物の姿を見ると、「魔人の遊戯」を遊んだあの時のロドニー・ラーヒムのことが思い浮かんできて、僕の胸はひと時、熱くなるのだ。 |
No.1 | 10点 | 占星術殺人事件- 島田荘司 | 2007/08/09 01:40 |
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ああ、何度読んでも面白い。読書の楽しみを満喫できる最高の一冊である。
「梅沢平吉」により残された手記をめぐって、御手洗と石岡が交わす会話のなんという面白さよ。その中で提出される、前代未聞の殺人事件の謎の大きさよ!その不可解さよ! 解決編を読んで「生きていて良かった。この本を読む事ができて良かった」としみじみ思った。 これは、日本のミステリーが到達した最高峰である。 そしてその完成度故、これを超える作品は今後、絶対に現れないであろうということを確信するものである。 <P.S> ミステリーの探偵役が発する数ある「ユリイカ!」の中で、本作のものは最も印象的である。 この上なく唐突でユーモラスで微笑ましくて……そして何かしら感動的である。 |