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Tetchyさん
平均点: 6.74点 書評数: 1572件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.1492 7点 図書館警察- スティーヴン・キング 2021/03/20 00:15
中編集“Four Past Midnight”を二分冊化して刊行されたうちの後半部が本書である。世間の評判は1冊目の『ランゴリアーズ』の方が高く、同書は97年版の『このミス』で18位にランクインしているのに対し、本書は圏外にも入っていない。私はその題名から『ランゴリアーズ』よりも本書の方への興味が高かったが、今回読んでみて世間の評判が正しいことに残念ながら気付いてしまった。

それはやはり「図書館警察」に対して期待値が高すぎたことによるだろう。
正直に云えば図書館警察という題材から想像した物語がこんな話になるとは思わなかったのだ。もっと図書館の大切さを、必要性を絡めたホラーとなることを期待したのだが、結局は怪物と少年の痛ましい虐待の記憶との戦いというキング特有の物語に落ち着いたのがつくづく残念でならない。
それは恐らくこの題名から私は有川浩氏の『図書館戦争』のような物語を創造してしまっていたのだと思う。そちらは図書館を護る自衛隊のような存在、図書隊がメディア良化法という悪法を強要する同委員会が送る軍との戦いを描いた作品だが、それと同じように図書館のルールを取り締まる警察の話だと思ってしまったからだった。
もう1つは最初に主人公のサム・ピープルズが図書館を訪れた時に、図書館の雰囲気に恐怖し、一刻も離れたい場所だと称したことだ。それはつまりサイキック・バッテリーとしての建物というキングがよく用いる題材として図書館自身が恐怖の舞台であるかのように思ってしまったのも一因だ。確かに最後の対決の舞台は図書館であるが、図書館が異形の者を生み出した、呼び寄せたのではなく、この作品はあくまでアーデリア・ローツという怪物の物語であった。そこが最後まで違和感を拭えなかったのである。

次の「サン・ドッグ」を読んですぐに想起したのはつい最近刊行されたキングの息子ジョー・ヒルの中編集『怪奇日和』に収録された「スナップショット」だ。記憶を奪うポラロイドカメラを持った男が女性に付きまとう物語だが、「サン・ドッグ」は目の前にない物が写るポラロイドカメラを持った少年の話だ。
両者に共通するのはキングの妻であり、ヒルの母であるタビサがポラロイドカメラを購入したことだ。そこにそれぞれがこのカメラに対してインスピレーションを得て、ポラロイドカメラをモチーフにしながら異なる作品を描いたことに興味を覚えた。
この作品も今振り返ればキングが初期から題材にしている“意志ある機械”の怪異譚である。この異界を写すポラロイドカメラがやがて使い手の心を侵食し、そして異界から怪物を呼び出させる。しかしカメラが写し出す風景に関する逸話については触れられない。ただ巨大な犬が近づき、やがてその犬が怪物へと変容していく様、そしてこのままいけば撮影者は間違いなく殺されるだろうことがカウントダウン的に語られる。シンプルな話ほど怖いと云うが、それ故に色んな説明の長さが目立った。単純な話を余計なぜい肉で太らせたような作品になったのはつくづく残念である。

あと本書で見られる他作品とのリンクはまず「図書館警察」では『ミザリー』の主人公の作家ポール・シェリダンがナオミ・ヒギンズが図書館で借りる本の作家の1人の名前として登場する。
もう1つ「サン・ドッグ」はキャッスルロックが舞台とあって逆にリンクを意識的に盛り込んでいるようだ。まずこの作品での悪役となるポップ・メリルの甥は中編「スタンド・バイ・ミー」に登場する不良のエース・メリルであり―彼がその後強盗を行い、ショーシャンク刑務所に4年服役していたことも明かされる―、更には『クージョ』の話もエピソードとして出たりもする。しかしこのキャッスルロックも次作で幕が閉じられるとのことだ。なんだか勿体ない思いがする。

あとなぜかキングでは玉蜀黍畑が不安を掻き立てる場所として登場する。玉蜀黍畑を舞台としたアンファンテリブル物、その名もズバリの「トウモロコシ畑の子供たち」から「秘密の窓、秘密の庭」でも作中で登場する盗作疑惑の小説で登場するのが玉蜀黍畑。そして本書「図書館警察」でもデイヴがアーデリア・ローツに誘われ、かくれんぼをして魅了されてしまうのが玉蜀黍畑だ。それはまさに彼が踏み入ってはならない領域の入口として書かれている。

これからのキングは恐らくどんどん話が長くなっていくのだろう。それは創作の設定材料としてノートに書かれるメモの内容のほとんどを作品に盛り込んでいるからではないか。
私は1冊の本に登場する人物に対してこれほどまでに緻密な性格設定と生活設定を考えているのだと誇示しているかのようにも見える。
しかしそれは作家として読者に語るべきではない裏方作業のことだ。この創作の裏側まで書かれていることに興味を覚えるか、逆にそこまで語らなくてもいいのにと幻滅するかがキングのファンとしてのバロメータとも云える。
今現在の私はここまで書く必要はあるのかと疑問を覚える方なのだが、これが物語の妙味として、もしくはこれぞキングだとキング節として味わえるようになるのかが今後変わっていくのかが私のキング作品に対する評価のカギとなることだろう。

No.1491 7点 ポイントブランク- アンソニー・ホロヴィッツ 2021/03/17 23:30
今回のアレックスの任務はある実業家の息子に成りすまして、世界有数のエレクトロニクス会社々長と元KGB将軍2人の不審死の謎を探ることだ。
他人の息子に成りすまして謎多き寄宿学校に潜入するというホロヴィッツは今回もこの14歳の少年スパイという特殊設定を存分に活かしたストーリーを用意したというわけだ。

そしてエンタテインメント・ジュヴナイル小説として実に王道を行く内容でそこここに少年少女をくすぐるようなアイテムが織り込まれている。

更には007の本歌取りは今回も踏襲されており、上に書いたようにアレックスが渡されるアイテムの中にスキー・スーツがある時点でお馴染みの雪山でのアクションがお約束通り繰り広げられる。スノーモービルを操る警護兵にアレックスがスキーではなく手製のスノーボードで逃げるのは現代風だ。
更にはヘリコプターで逃げるグリーフ博士も007シリーズではもはや定番と云っていいだろう。それを阻止するためにアレックスがジャンプ台を利用してスノーモービルを逃げようとするヘリコプターにぶつけて爆破するのも007のみならず多数のアクション映画で観たシーンであり、この辺りはあまりに定型的すぎるとは感じたが。

さて今回の敵ヒューゴー・グリーフ博士の野望、ジェミニ計画とは各国の権力者、実業家、大富豪の不肖の息子達に成り代わって更生した息子達としてそれら息子達瓜二つに整形した自らのクローンを送り込んで、将来彼ら両親の跡を継いで世界の実権を握ると云うものだった。
この計画は本当に上手く行ったのだろうかと疑問がある。さすがに親ならば顔や姿形が瓜二つであっても違いには気付くだろう。ポイントブランク・アカデミーで預かる子供たちの年齢が14歳であるのは2,3年で親元を離れ、大学生活を送ることを想定してのことだろうか?つまり違和感を覚えても24時間一緒に暮らすのはせいぜい2,3年だから発覚しないだろうと云う思惑があってのことだろうか。いやそれでもしかし計画に無理があると感じずにはいられない。

また007のオマージュと云えばジョーズとかオッド・ジョブやニック・ナックといった個性的な怪人が現れるが、本書ではポイントブランク・アカデミーの女性副校長エバ・シュテレンボッシュ女史がそれにあたる。なんせ女性でありながら風貌はゴリラそのもので5年連続南アフリカの重量挙げチャンピオンである怪力を誇る。つまり通常の男性は格闘では歯が立たず、アレックスもまた手も足も出ないほどに叩きのめされる。

またアレックスのいわば目の上のタンコブ的存在のMI6局長アラン・ブラントが相変わらずスパイに対して非情な態度を示すのに対して―アレックスがSOSを送ってもしばらく様子を見ようとして、半ば見捨てるような発言をする―、秘書のジョウンズ夫人がアレックスに同情を示すようになったのが大きな変化だ。今後ジョウンズ夫人がアレックスの隠れた支援者としてどのように関わってくるのかも気になるところだ。

冒頭の麻薬売人の派手な捕物シーン、他人への成りすましのための訓練とそこで出遭ったお嬢さまとの恋愛ニアミス、そして悪の巣窟への潜入捜査、そこからの脱出に巣窟への襲撃と囚われの息子達の救出と敵たちとの戦いと殲滅。更に意外なところで再び現れた敵との戦いと頭から尻尾までぎっしりと餡子が詰まったエンタメ小説。本当にホロヴィッツは本家007を忠実に擬えてこのアレックス・ライダーの物語を綴っている。
読書好き、アクション映画好きの少年少女たちがこのアレックス・ライダーシリーズが思い出の作品になっているのかは不明だが、彼ら彼女らを愉しませようと計算して作られているのは解る。しかしその教科書通りの展開は水準ではあるが突出した何かを残すものではないのが残念だ。

スパイという身分を偽り、時には非情な判断を下す稼業を14歳という若さで就くことになったアレックス・ライダーがいつまでその実直さを保てるのか。死と隣り合わせのスパイという職業をカッコいいだけでなく、道具のように扱う上司もあしらうことで大人の世界の汚さも見せるこの作品はある意味思春期の少年少女達の大人への通過儀礼の意味合いもあるかもしれない。

いややはりそれは考え過ぎだろう。この明らさまなまでにエンタテインメントに徹したアレックスの活躍をただただ愉しむのが吉だ。
純なスパイ、アレックスの次回の活躍を愉しみにしていよう。

No.1490 7点 黒衣の花嫁- コーネル・ウールリッチ 2021/03/15 23:32
ウールリッチお得意のファム・ファタール物のサスペンス。謎の美女による連続殺人事件を描いた作品だ。
被害者はそれぞれ株式仲買人に年金暮らしのホテル住まいの男、そして普通の会社員、画家に作家とそれぞれバラバラだが、殺人犯のジュリーとだけ名前の判明した女性には彼らが持つある共通項に基づいて殺害を行っている。
それぞれの被害者と謎めいた女性殺人者ジュリーとのエピソードはまさにそれ自体が短編のような読み応えで、これぞまさにウールリッチ・タッチだと存分に堪能した。

ある時は金髪の黒衣の女性、またある時は赤毛の理想の美人、またある時は赤みがかった金髪の化粧っ気のない幼稚園の先生、またある時は黒髪の画家のモデル、そしてある時は白髪交じりの髪をした中年の婦人に扮して標的となる男たちの前に姿を現す美と知性と度胸を兼ね備えた稀代の悪女ジュリー。
しかし彼女は決して自分の復讐に他者を巻き込ませようとしない。
自分の殺人に責任をもって行っている、気高さすら感じる公平さを持っている。

ジュリーの行った復讐は全く関係のないものだったことが最後に判明する。
愛する男のために姿を変え、危険を承知で近づき、そして復讐を果たす。しかし決して被害者周囲の関係のない者達には迷惑を掛けずに、時に自分が殺人を犯したことさえ話して現場から追い払い、または冤罪を掛けられそうになった者を救うために匿名で電話さえもする。
そこまで自分を律し、2年もかけた復讐が無意味なものになった時、女は、ジュリーは何を思ったのか?

正直事の真相を知ると、ジュリーを取り巻く人間関係が狭すぎ、そして状況は偶然すぎるように思えるだろう。
そして現在社会ではこのジュリーの犯行は計画的に見えてかなり危ない橋を渡ったもので、顔も隠していないどころか複数の目撃者もおり、逮捕されるのも時間の問題のように思えてならないだろう。
しかしウールリッチの抒情的かつ幻想的な語り口がそんな偶然性、現実性を霧散させ、まるで復讐を遂げようとするか弱き美女の死の魔法が成功する様を酔うが如く堪能するような作りになっている。

愛ゆえの女性の復讐譚である本書が女性がまだ男から軽んじられている時代に書かれたことを我々は知らなければならない。
作中でもプレイボーイの男がジュリーにあしらわれたのを根に持ち、憤慨する様に刑事は同情し、好感さえ覚える、そんな時代だ。
そんな時代に女性の強さを強調した本書は母親と一緒に暮らしていた作者だからこそ書けたのだろう。それでもこの徒労感漂わせる結末は何とも遣る瀬無い。冬の寒さが身に染みる夜だけにこの女性の虚しさが一層胸に迫った。

No.1489 10点 恋のゴンドラ- 東野圭吾 2021/03/11 23:34
本書は雪山を舞台にした連作短編集だが、ミステリというよりもシチュエーションコメディといった方が適切な、笑いに満ちた内容になっている。

そしてメインとなるのは日田栄介と同じホテルで働く遊び仲間水城直也、木元秋菜、月村春紀、土屋麻穂たちのエピソードと並行してリフォーム会社に勤める浮気男広太の話だ。
さてこの日田栄介という男、風貌については描写がないが、いいヤツだと皆が口を揃えて云うが、女性から見ると結婚の対象としては考えにくい存在と評される、私も含め読者の身の回りに実際のモデルが思いつく男である。
そんな彼を応援するのがプレイボーイの水城直也はじめ、後輩の月村春紀と収録作の中で彼と結婚する土屋麻穂ら、同じシティホテルで働くスノボ仲間たちだ。

また忘れてならないのは各編に登場する人物が共通してスノボの愉しさを満喫していることだ。可愛い女の子と二人で滑るスノボ、職場の親しい仲間たちと滑るスノボ、ゲレンデでスノボを愉しみながらの合コンまで登場する。

そんな中で繰り広げられる各短編は非常に読みやすく、また愉しめるものばかりだ。
婚約者に隠して浮気相手とスノボ旅行に行く男が待ち受けていた意外な展開。
スノボ仲間たちのそれぞれの思惑と意外な関係。
モテない男のために仕掛けるプロポーズ大作戦の意外な結末。これは哀しい結末と幸せな結末2編が収録されている。
ゲレンデ合コン、通称ゲレコンで出逢った男女の恋の行方。
生粋のスキー好き、スノボ嫌いである結婚した相手の父親にスノボを趣味とすることを認めさせるための作戦。
ゲレンデで出逢った美人と思わぬ再会を果たし、結婚しているにも関わらず食事を一緒にする、懲りない男の話。
なかなか付き合う決意が固まらない女性が、相手と向き合うために参加したスノボ旅行で偶然にしては悪戯すぎる元カレ(?)の再会。
とこのように我々読者の周りにネタとして語られるような男女の恋愛に纏わる、どこにでもありそうな話が東野氏に掛かると非常に面白い読み物に仕上がっているのだ。

日田栄介という男。典型的な同性にはモテるが異性にはモテない男だ。いやあ、この男のダメっぷりが実に面白い。
同じ話を繰り返す芸の無さ、雰囲気や秘密を平気でぶち壊す空気が読めない感、そしてファッションセンスの無さ。仕事の時は女性が惚れ惚れするほどの洗練さを見せるのにプライベートではとことんダサい男。
しかしこのモテない男は逆に女性がリードすることで変われることを気付いた桃実は実にエライ!というよりもこの日田という男を創造した東野氏がやっぱり偉いのだ。
いや寧ろ容姿も悪くなく、仕事もできるのになぜか長らく独身な男はこの日田栄介のエピソードを読んで自らを振り返ると、自分が結婚でない理由が解るのかもしれない。

果たしてこの作品のネットでの評価はどのようなものなのかは解らないが、私は非常に楽しく読めた。いやこういう話が私が好きなのだ。

このスキー場シリーズはスノボ好きの東野氏が集客数が減退しつつあるスキー場に少しでもお客さんが多く来るようにとそれまでスキーやスノボをやったことのない人、もしくは長らくそれらから離れている人たちにその面白さを伝えるために広い範囲の読者に読まれるよう、ミステリ色を抑え、あくまでエンタテインメントに徹し、更にキャラクター達におかしみを持たせた非常に読みやすい作品ばかりが揃っている。

とにかく本書は面白かった。上に書いたようにミステリというよりもシチュエーションコメディ的な作品集だが、そこは東野氏、ミステリ風味も加味され、サプライズも用意されているし、またスノボ愛を筆頭としたウィンタースポーツへの愛情も織り込まれている。

東野圭吾読みたいんだけど、どれから読んだらいいと訊かれたら、その人があまり本を読まない人であれば間違いなく本書を勧めたい。本書はそれほどとっつきやすく、また思わずにやけてしまう面白さと人間模様が詰まった作品集だ。

しかし東野氏が帯で述べているように、男とはこういう生き物なのだ、とは思われたくないなぁ。

No.1488 7点 ランゴリアーズ- スティーヴン・キング 2021/03/06 00:31
キングの中編集“Four Past Midnight”に納められた4編の内、2編を収めた作品集。

本書に付された序文によれば『恐怖の四季』がそれまでに思いつくままに綴った作品を収録した物であったのに対し、本書はキングが不調で引退したと思われていた2年間に書かれたホラーであることが異なっている。

余談だが、映画『スタンド・バイ・ミー』が大ヒットした映画監督のロブ・ライナーは自分の設立したプロダクションを<キャッスルロック・プロダクション>と名付けたらしい。

また本書では各編に創作ノートが付けられているのも特徴だ。そこにはキングはそれぞれの物語の着想を得た時の状況やあるアイデアから物語が膨らみ、各編へと至った経緯が語られており、興味深い。
特に私が驚いたのはキングが「アイディア・ノート」を一切作っていないこと。彼は良いアイディアはすぐには忘れられるものではないとし、自然消滅するようなアイディアはつまらないものだと思っている。そしてよいアイディアは折に触れ頭に浮かび上がり、次第に形になっていくものだと述べている。

「ランゴリアーズ」では旅客機の隔壁の亀裂を必死に抑え込んでいる女性のイメージが浮かび、ベッドに就いている時にその女性が亡霊であることに「気付き」、そこから物語が出来ていったそうだ。
このようなエピソードを読むとやっぱりキングは全身小説家とも云うべき常に物語が頭にある稀有な作家なのだと思い知らされる。
そんなキングが生み出した本書2編に私は作者の作家としての苦悩と恐怖を感じた。

本書の表題作である「ランゴリアーズ」。
ランゴリアーズという黒い球体のような物体が何兆もの夥しい数で現れ、大きな口を開けて世界を食べていく。ランゴリアーズが噛んだ後は何も残らない暗闇、即ち無になる。球体で大きな口と云えばパックマンを思い浮かべるが、恐らくキングもそれからイメージを喚起したのかもしれないが、キング版パックマンであるランゴリアーズは何とも恐ろしい。彼らが食べる後にはそれこそ何も残らない。登場人物の1人が云うように奴らは永遠の虚無を掘り起こしているのだ。

そしてこの迫りくる虚無。全てを無にしてしまうランゴリアーズはキングの潜在的な恐怖を具現化したもののように思える。それは忘却だ。
本書の中編が書かれたのは序文にもあるように世間で引退したと思われていた時期の2年間に書かれている。つまりキングがスランプ状態に陥った時の作品だが、この『ランゴリアーズ』はその時のキングの心情が色濃く表れているように思われる。
それまでのキングはその頭の中からどんどん湧き出す物語があり、それを紙面に落として数々の作品を生み出していたわけだが、その彼が急にスランプになり、書けなくなった。そうすると世間では彼が引退したとみなし、もう過去の作家だと思われているのではないかとキング自身が忘れ去られようとしていると思い込み、その恐怖がランゴリアーズを生み出したのではないか。
登場人物の1人パイロットのブライアンが呟く。ランゴリアーズに食い尽くされた大地にあるのは真っ暗闇の無、虚空。飛行機の燃料が尽きる時、そこには激突は出来ず、ただ墜ちるしかない。虚空に向かってどれだけ墜ちていくことができるのだろう、と。それはまさにひたすらスランプに陥ったキングがこのままどこまで堕ちていくのかと想像を絶する不安を抱えていたことを暗示しているかのようだ。

この作品で狂える銀行重役クレイグ・トゥーミーこそ当時の作者の醜い部分を表した人物であるように思える。ランゴリアーズの襲来を恐れるあまり、盲目の少女の胸にナイフを突き立て、重傷を負わせ、1人の死者を出し、ボストン行きに固執する彼はキングの焦燥感をそのまま写した鏡のようなキャラクターと捉えるのは間違いだろうか。

そして異世界に迷い込んでしまった彼らが生還するには知らぬ間に潜り抜けてしまった“時間の裂け目(タイム・リップ)”という彼らの住む世界とランゴリアーズの蔓延る世界の境界に空いた裂け目を再び潜り抜けるしかないと考える。それはLA発ボストン行きのフライトの途中にあると思われ、彼らはそれを逆に辿ることにする。つまり出発点に戻る、過去に戻るために。
何とも象徴的な作品だ。ランゴリアーズの住む世界はキングが恐れた、自分がスランプを脱せずにこのまま忘れ去られようとしている暗鬱な未来を象徴し、このスランプから逃れるために原点に戻ろうとする、当時のキングそのものの心境、覚悟が行間からにじみ出ているかのようだ。

そして彼らは見事“時間の裂け目(タイム・リップ)”を見つけ、1人の乗客を犠牲にして生還する。しかしその生還も単純ではない。彼らは過去に戻りながら、その過去の時点の未来に戻ったのだ。そして現在が追いかけてきて同調し、元の世界に戻る。しかし戻った彼らは他の人々とは少し違って、なんだか輝いて見える。登場人物の1人ローレルが、新しい人間になったようだと云うが、これもまさにキングの心情そのものではないか。

キングは本書を『恐怖の四季』とは異なり、全てホラーを書いたと述べた。しかし本書は確かに異世界に迷い込み、そこで発狂する人間が登場し、それによって殺人が起こり、尚且つランゴリアーズという全てを無にする怪物が登場するパニック・ホラーではあるが、結末は何とも清々しい。
つまりこの「ランゴリアーズ」という作品そのものがスランプを脱し、再びモダンホラーの世界に戻りながらも、それまでの作品とは違った風合いを持った作品を放つ新生キングの誕生の声高の宣言書のように読み取れるのだ。

しかし一方次の「秘密の窓、秘密の庭」は逆に小説家という職業に付きまとう根源的な恐怖を描いている。自分が紡ぎ、世に送り出した小説が実は今まで自分が読んだ他者の小説の影響を潜在意識下で受け、模倣、剽窃したのではないかという恐れだ。
スランプに陥り、新たな出発を誓いつつ、その一方で今から書くものは本当に自分のオリジナルなのだろうかと自らを苛むキングの姿が見えるようだ。
従ってある日知らない人が訪ねてきて、「あなた、私の作品、真似したでしょ!」と糾弾され、次第に狂っていくモート・レイニーの姿はキングの根源的な恐怖の象徴なのかもしれない。

またこの作品では映画化される予定の作品が昔の作品に類似していることから頓挫したエピソードが出てくるが、これもまた作者の実体験のように思われる。人間が生まれてそれほど数えきれない数の物語が語られ、書かれてきた現在、完全なオリジナルの作品は皆無と云えるだろう。同じパターンの話を設定と語り口を変えてヴァリエーションを増やして生み出しているというのが現状だ。例えばこの「秘密の窓、秘密の庭」の話自体、今やそれほど驚かされる話ではない。しかしこの作品が映画化までされたのはそこに作家キングの影や彼自身が抱く潜在的な恐怖が滲み出ているからだ。

この時期のキング作品には彼自身の創作意欲が放つエネルギーがもはや虚構に留まらず、現実世界にまで及んでいると感じさせられるほどの凄みがある。

No.1487 7点 地獄の湖- ルース・レンデル 2021/03/02 23:16
この何とも云えない気持ち、読後感。レンデルのミステリを、物語を読むといつもそんな気持ちにさせられる。
さてこの思いをどうやって言葉に綴ろうかと。

殺人衝動を持つ男フィンと独身の会計士マーティン・アーバンの話が並行して語られる本書は最初どのような方向に話が進むのか皆目見当がつかなかった。
この全く交じり合わないであろう2人がマーティンの母親の言葉で交錯し、そしてフランチェスカとティム・セイジに騙されていたマーティンにフィンが関わりいくその様はまさに詰め将棋を観ているような美しさを感じた。
しかしそれはロジックの美しさに感動する類ではなく、運命の皮肉がカッチリ嵌り過ぎて怖くなる物語としての美しさだ。寒気が背中に走るほどの。

これぞレンデル。この容赦なさこそレンデルだ。よくもまあここまで運命の皮肉という詰め将棋を思い付いたものだ。
ほんの悪戯心と些細な復讐心から起きた詐欺が思わぬ効果を上げたかと思えば、そのビッグディールがまさに目の前で手元からすり抜けていく。全く思いもかけない方向から。
悪事が大きくなればなるほど払う代償もまた大きくなる。悪事と代償の作用反作用の法則、もしくは等価交換の原理をまざまざと見せつけられたかのような思いがした。

最後の最後の最後までレンデルの残酷劇場は止まらない。こんな物語を読まされた後では、もはやありきたりな運命の皮肉という言葉ばかりが浮かんでしまう。しかし私が今抱いているのはそんな5文字には収まらない何とも云えない感情なのだ。


全てを明かし、マーティンと格闘したティムが彼の純真さに呆れて笑う。
そう、もはやこの世は純真では生きていけないのだ。人を騙す、人を利用する強かさを備えていないと生きていけないほど世界は汚れてしまっているのだ。
新聞記者のティムの強かさは世間の汚さを代表した、いや世間を生き抜く人そのもの、我々こそがティムなのかもしれない。

その彼が云う。「新聞記事なんて人間が書くものさ。正真正銘の真実を伝えているわけではない」

人の書くものはその人に意思が宿る。それが公に出て、そして売れていく。このティムの言葉の新聞記事を小説に置き換えると、レンデルの言葉そのままにならないだろうか。

これは小説さ。人間が書くものさ。正真正銘の真実を伝えているわけではない。

つまりここに書かれている悲劇は人の書いたものだから、そんなに世を悲観するのではないよと読者に向けた慰めの言葉なのではないか。

だからこそ彼女は数々の皮肉を書く。人が救われない、報われない物語を書くのは正真正銘の真実を伝えているわけではないのよ、と云いながら。

本書のタイトル『地獄の湖』は殺人を犯すフィンが隠れる街灯の光が届かない暗闇を指している。原題も“The Lake Of Darkness”とほぼそのままだ。
それはつまりこの世はこの地獄の湖ばかりであるという風に取れるのである。そしてその湖こそがレンデルが覗く闇であり、描く人の闇なのだ。

たった286ページに凝縮された残酷劇場。またもレンデルにはやられてしまった。
年を取るとレンデル作品はかなり面白い。

No.1486 7点 北村薫のミステリびっくり箱- 評論・エッセイ 2021/02/28 23:42
≪日本推理作家協会≫の前身≪探偵作家クラブ≫の頃から会報は継続して発行されており、昭和35年までの185号までの記事を読むと当時の作家たちは他の業界の方々を交えて色んなイベントをしていたことが判明した。それを見つけた北村薫氏が今ではそれほど活況ではなくなった異文化交流とも云うべき他業界の人々を交えて座談会を行うことを企画した。まさにミステリに耽溺して止まない北村氏ならではの企画である。昔の会報を読んで自分も同じことをやってみたいなんて、ほとんど子供の好奇心と変わらないが、それをまた実現させるのも北村氏のネームバリューゆえか。

さて過去の会報の中から選ばれたのはまさに千差万別。それぞれの題材はミステリとは縁浅からぬもので構成されており、将棋や手品、映画、落語などはまあ、ごく普通の題材だが、変わり種では忍者、女探偵、嘘発見機といったものもあり、これらは非常に興味深く読んだ。

やはりその道の専門家の話は含蓄に溢れていると気付かされた。ミステリを含む小説や物語を読むことで我々読者はそこで語られていることをその道の人々が実際にやっているものだと思い込んでしまうものだが、実際は違うことがはっきりと判った。特に嘘発見機の使い方や女探偵の本来の探偵の仕事が全く小説と異なっているのは蒙が啓かれる思いがした。
あとやはりこのような記録は電子化してアーカイヴするべきである。この故きを温ねて新しきを知る企画本そのものも現在絶版の状態である。しかも電子書籍化もされていないらしい。
こうやって歴史は廃れ、やがて忘れられていくのだ。しかも昭和よりも平成の創作物の方がそのペースが速い。極端な話をすれば昨年刊行された書物が翌年手に入るかさえも怪しいほど、出版界は変化が速くなってきている。それは出版界や書店自体が今大きな局面を迎えており、余剰在庫を抱える経費を十分に取れない状況にあるからだ。

しかしこのように隠れざる歴史を掘り起こすのはやはり大事だ。本書はいわば大人のごっこ遊びと最初は思ったが、その業界に触れることで日本のミステリ界が知見を広め、そして刺激をお互いに与えあい、高めあった蜜月の日々があったことを教えてくれた。

ミステリをとことん愉しむ、体験する。北村氏の好奇心こそが今我々に必要な稚気なのかもしれない。

No.1485 8点 煽動者- ジェフリー・ディーヴァー 2021/02/27 00:06
キャサリン・ダンスシリーズ第4作の本書はいきなりダンスのミスで容疑者を盗り逃すシーンから始まり、その責任を負って民事部へと左遷させられるというショッキングな幕開けで始まる。

このダンス左遷の原因となった<グズマン・コネクション>の捜査と悪戯に騒ぎを起こして死傷者が発生する煽動者の事件、そしてダンスの息子と娘たちのエピソードの3つが並行して語られる。

本書の脅威は暴動、いやパニックと化した集団だ。
正気を失い、パニックとなった人々はそれが恰も大きな1つの生き物のように動き出す。しかしそれは決して秩序だったものではなく、我先にと自分の命を、安全を確保するためならば他人の命をも、文字通り踏みにじってまで助かろうとする執着心が、理性を奪い、人間から獣へと変えさせる。DNAに刻み込まれた生存本能が人を変えるのだ。

そして更に人は自分の命を脅かした存在を知るとそれを排除しようとして、いや寧ろそんな危険に目に遭わせた仕返しをしようとして、再び理性を失い、攻撃性が高まる。やらずには済ませない、子供の頃に芽生えた感情が復活し、本性がむき出しになる。

しかもそれはたった数分のことに過ぎない。人間が理性を失うのが危険を察知し、スイッチが入るのもすぐならば、そのスイッチが切れるのも、例えばパトカーの回転灯が見えた、そんなことで人は理性を取り戻し、人間性を取り戻す。この僅か数分、人間が暴徒と化すだけで多くの犠牲者が生まれる。

そして今回ダンスが対峙する敵は人間の群集心理を利用してパニックを引き起こして不特定多数の人間を死に至らしめる、一生背負う疵を負わせることに喜びを見出している者だ。本書のタイトル「煽動者」はそこから来ている。

それらは全てイベントという非日常で起きた悲劇だ。その日を、その雰囲気を楽しみに来ていたいわばハレの場が惨状に変わるパニックの恐ろしさを思い知らされる。

またキャサリン・ダンスといえばボディ・ランゲージから相手の嘘を見抜くキネシクスが専売特許だが、本書でもそれに関する色々な知識が開陳される。
ただリンカーン・ライムシリーズでは快刀乱麻を断つが如くダンスのキネシクスが大いに活躍するが、なぜかダンス本人が主人公のシリーズになるとほとんどこれが機能しなくなる。これがとても違和感を覚えてしまうのだ。
今回最もキネシクスのダンスが盲目になるのは自分の子供たちに対して隠し事を全く見抜けないことだ。
娘のマギーが学校の発表会で『アナと雪の女王』の主題歌“レット・イット・ゴー”を歌う大役を下りたくなった心境もそうだし―本書ではこの主題歌のタイトルがキャサリンの心を切り替えるための合言葉としてやたらと出てくる。

キャサリン・ダンスシリーズはリンカーン・ライムシリーズよりも家族や恋愛面に筆が割かれているのが特徴的だ。それはダンスが優秀な捜査官でありながら二児の母親であり、更に夫を亡くした寡婦であることが大きな理由だが、それが私にしてみれば物語のいいアクセントになっていると感じている。
連続的に犯行を起こす犯人を追いつつもその捜査の中で家族のイベントや男女関係に揺れる心情が挟まっており、理のみならず情の部分についても触れられ、それが読み物として私にとって読み応えを感じている。

またダンスがかつてミュージシャンを志した過去が明らかになる。プロの道を目指してかなりの努力をしたが、アマチュアとプロの壁を越えることができなかったため、キネシクスを学び、今に至ったとのこと。これはまさにディーヴァ―そのものではないか。彼もまたかつてはフォークミュージシャンを目指したが、大成せず、ミステリ作家になってベストセラー作家になった。

さて今回のようにハッピーエンドを迎えるとシリーズも大団円を迎えたように感じるが、私は再び彼女の活躍が見たいのである。彼女のキネシクスを存分に活かしたシリーズの集大成とも云える作品にはまだ逢っていないと思っているのだから、これで終わりにはしないでほしい。
しかしそれも“レット・ヒム・ゴー”。ディーヴァーに任せるしかないのだが。

No.1484 7点 危険なビーナス- 東野圭吾 2021/02/20 00:07
疎遠になっている弟の妻と名乗る女性から連絡があり、夫が失踪したと知らされる。しかしその妻は積極的に夫を捜すわけではなく、本来夫がすべき親族の紹介をする手伝いをするようになる。そして自分が縁を切った金満家の矢神家に関わるうちに、次第に亡くなった母親の見知らぬ一面に接し、謎が深まっていく。
弟の妻と名乗る女性が突然現れる。このウールリッチの諸作を思わせる展開は実情を知らなくてもその対象となる人物のことをネットなどでリサーチすれば成りすませることが可能となる昨今だからこそ妙にリアルに感じる設定だ。

そして不思議なのは夫矢神明人が失踪したのにも関わらず、積極的なのは夫の捜索ではなく、矢神家の過去や因縁を探ろうとする妻楓の存在だ。彼女は夫が相続することになっている矢神家の全財産を不在の明人に代わって宣言し、既に家族の縁を切って疎遠となっている手島伯朗をパートナーにしてどんどん矢神家の過去へ迫ろうとする。

特に殺人事件が起こるわけでもなく、失踪した異父弟の新妻のために行動し、そして少しばかり複雑な事情の自分の親族たちと向き合うという地味な話なのになんと読ませるのだろう。

複雑に入り混じった親族の、しかも矢神家という伏魔殿の如きプライド高い名家の軋轢に伯朗が惑わされる、いわば東野版『渡る世間は鬼ばかり』とも云うべき作品だ。

しかし伯朗を見下すそんな名家の人々が出てきながらも読んでいる最中はさほど不快感を抱かない。
それは矢神楓という女性の存在が際立っているからだ。美人で元JALのCAをしていた彼女は臨機応変に物事を対処する機転の持ち主(ただ真の正体は最後に明らかになるのだが)。そして自分の容貌が武器になることを理解して、男たちに媚を売って籠絡させることを全く厭わない。十分に強かな女性なのだが、陽気かつ親しみやすさを感じる性格ゆえに嫌味を感じない。最も女性の目からは憧れの存在だった明人を独り占めした女性という敵のように映る一方で、海千山千の人物を見てきたクラブのママを務める矢神佐代からは只者ではないと感じさせる。

一方そんな彼女に翻弄される手島伯朗の人物像が次第に何とも頼りない男に見えてくる。一緒に行動するうちに楓のことが気になって仕方なくなり、笑顔を見せられたり、同情されたりすると気分が良くなり、彼女に頼られたいと思うようになる。その思いは次第にエスカレートし出し、終いには逐一行動をチェックするようになる。弟の妻であることを半ば忘れて、自分の恋人のように彼女が他の男と仲良く談笑するのを、自分ではなく他の男性と一緒に過ごすのが我慢ならなくなってくるのだ。
そんな彼の本質を彼の動物病院の事務員蔭山元美からズバリ指摘される。彼は実に惚れっぽい性格なのだ。美人が好きで蔭山元美を採用したのも彼女が美人だったからだ。そして独身であるのは単に女性に対して免疫がないだけで彼自身は気のある素振りを見せていないと思っているが、実は周囲には気のあることがバレバレという不器用な男だ。一方で女心についてはかなり鈍感だ。蔭山元美が矢神楓の出現からジーンズ履きからスカート履き、しかもミニスカート履きが増えたのも彼女が手島に楓ではなく自分に目を向けさせるためのセックスアピールであろう。つまり蔭山元美もそんな不器用な伯朗を少なからず悪く思っていないのだが、彼はそんな彼女の気持ちに気付きもしない。

機転の利く矢神楓と鈍感男の手島伯朗2人が辿る今や没落の一途を辿りつつある名家矢神家の面々と過去の因縁が謎が謎を呼ぶ展開を見せ、ページを繰る手を止まらせない。

またトリビアだが、本書の登場人物の1人、矢神家の異母弟の矢神牧雄は泰鵬大学医学部の神経生理学科で研究をしているが、この泰鵬大学、実は東野作品ではやたらとここの関係者が登場し、実はかなり微妙なリンクがあることに気付く。
『疾走ロンド』で新型病原菌K-55を盗まれたのが泰鵬大学医科学研究所で、次は短編集『マスカレード・イブ』の中の1編である表題作の被害者岡島孝雄は泰鵬大学理工学部教授、そして『ラプラスの魔女』の主人公青江も泰鵬大学教授だ。これほど泰鵬大学を持ち出すのは東野氏が読者に描く作品の微妙なリンクに気付いているかどうかを試しているのか、もしくはこの泰鵬大学を東野ワールドの支点にしようとして今後もっと扱いを大きくしようとしているのか、解らないが、この大学の名前は常に念頭に置いておこうと思う。

しかし題名『危険なビーナス』はちょっと浅薄でピント外れな印象を受ける。題名が示すビーナスは矢神楓のことだろうが、彼女は確かに口頭では目的のためには女を武器にして籠絡させると公言したが、それでも危険な香りはしない。寧ろ彼女の魅力に主人公手島伯朗が勝手に魅了され、そして翻弄されただけなのだ。そう、危険だったのは伯朗の惚れっぽい性格なのだ。

しかし開巻時からは思いもかけない着地点を見せつけてくれた。そして獣医界のエピソードや『ウラムの螺旋』といった数学の不思議と新たな知識も与えてくれた東野氏。まだまだ当分彼の作品の水準は下がりそうにない。
まさに品質保証の東野印。ベストセラー作家として数々の読者の財布を緩ます東野作品こそ危険な魅力に満ちている。

No.1483 7点 ストームブレイカー- アンソニー・ホロヴィッツ 2021/02/18 23:14
ホロヴィッツの特徴はかつての名探偵や名作ミステリの舞台を中心とした数々のパロディ作品が多いことで、本書もまたその例外に漏れない007シリーズの少年版とも云うべきハイテクスパイ小説になっている。ちなみに007シリーズを大いに意識していることを示すためか、アレックスがスパイの訓練のために入隊するSAS(英国陸軍特殊部隊)で付けられる綽名はダブルオー・ゼロである。

例えかつて凄腕の工作員だった叔父から将来のために鍛えられていた14歳の中学生がMI6のスパイになるとは実に荒唐無稽な話で、これは児童向けの娯楽小説として読むのが正しいだろう。
そしてホロヴィッツはそれを意識して色んな仕掛けを施している。それはさながらスパイ映画を観ているかのような映像的演出に溢れている。

例えば007のQに当たるスパイの秘密道具を開発するスミザーズという技術者が登場する。アレックスに与える秘密道具は特別なナイロンの紐が出てモーターによって巻き取ることの出来るヨーヨーであり、ニキビ治療用のスキンクリームに見せかけた金属溶解剤にニンテンドーならぬブリテンドーのゲームボーイではなく、プレイパームでゲームソフトを入れ替えると通信機器になったり、X線カメラや集音マイクに盗聴機器に発煙装置になったりすると子供が好きそうなアイテムが登場する。
またこれも潜入捜査のお約束で敵の本拠地は個人の軍隊とも云うべき武装集団によって護られているかと思えば、敵の自宅には大きな水槽があり、そこには巨大なカツオノエボシという毒クラゲが泳いでいる―確かにスパイ映画の悪党にはなぜか巨大水槽が付き物だ―。
また潜入捜査中にクォッド・バイクに乗った警備員に追いかけられるシーンもあり、007シリーズの映画を観たことがある人ならばすぐに映像が浮かぶほど、本家のストーリー展開に実に忠実に物語は運ぶ。

とはいえ、ホロヴィッツは単なる勧善懲悪物にしていなく、例えばアレックスが叔父の跡を継いでスパイになるのも自ら望んでではなく、唯一の肉親を喪って天涯孤独の身となったアレックスにMI6の特殊作戦局長アラン・ブラント、即ち叔父イアンの上司はそうせざるを得ない条件を突きつける。
ライダー家の家政婦でアレックスの身の回りの世話をしているジャック・スターブライト―ちなみに彼女は女性である―をビザの有効期限が切れると同時にアメリカに強制送還させ、家も売り払い、児童養護施設に入れると脅すのである。
またアレックスの標的であるコンピュータ会社の経営者ヘロッド・セイルの陰謀とは自身の開発した最新鋭のコンピュータを全英の中学生に無料配布することで、そこに仕込まれた天然痘ウイルスが発射され、皆殺しにすることが目的であることが判明するが、これも元々レバノンの貧しい家の出だった彼がたまたま街でアメリカの富豪老夫婦を事故から救ったことで養子となり、イギリスの学校に入れられ、そこで猛勉強して今の地位を確立したのだが、実は彼がイギリスの学校で体験したのは虐めの日々だったことが明かされる。来る日も来る日もありとあらゆるおよそ考えつく限りの虐めを受けた彼の積年の恨みを晴らすために全英の中学生を皆殺しすることを計画したのだった。
つまり正義の側は時刻を脅威から救う任務を追いながらも必ずしも清廉潔白ではないこと、また悪の側にもそれを実行するための虐待を受けてきた背景が織り込まれており、単純な二極分化するような構造としていない。

但し少年少女向け娯楽小説であることを意識してホロヴィッツはこのアレックス・ライダーとヘロッド・セイルの境遇を同一化して、その心の持ちようで人生が変わることを示している。
つまりこれから君たちは人生において様々な困難や逆境に出遭うだろうが、セイルのように捻じ曲がるのではなく、アレックスのようにどんな苦難にも立ち向かってほしいとホロヴィッツは述べているのだ。
このメッセージ性こそ美女と拳銃に彩られた娯楽物の本家007シリーズとこのシリーズの大きな違いではないだろうか。

しかしそれはこのように本書の感想を書く時に物語を振り返ってみて気付くことだろう。本書を読んでいる最中はただただアレックスの冒険に没入して読むだけでいい。

No.1482 3点 四季 冬- 森博嗣 2021/02/17 23:58
四季シリーズ最終作。遥かな未来に向けての物語か。

本書のストーリーはよく解らない。時代もいつの頃を描いているのかもよく解らない。物語の構成はそれぞれのエピソードが断片的に語られ、シリーズ1作目の『春』同様、四季と其志雄の対話、四季の思弁的な述懐が続く。

本書は一旦『秋』でそれまでのシリーズとの結び付きを語ったことでリセットされ、これからの物語のための序章というべき作品として位置づけられるようだ。
従って今まで本書までに刊行されてきた森作品を読んだ私でさえ、本書に描かれている内容は曖昧模糊としか理解できていない。本書が刊行されて16年経った今だからこそ上に書いたシリーズへと繋がっていくことが解るのだが、刊行当初は読者は全く何を書いているのか戸惑いを覚えたことだろう、今の私のように。

真賀田四季が望んだ犀川創平との再会。
チーム・リーダR・R、スタッフJ・P、そして四季のウォーカロン道流と接触してさらわれたG・Aが所属する謎の組織のシンク・ユニットの登場。
サエバ・ミチルを生み出した100歳を超える天才科学者久慈昌山。
これらが今後のシリーズのファクターとなり、徐々にまたその詳細が明らかになってくるのだろう。

冬は眠りの季節。ほとんどの動物が冬眠に入り、春の訪れを待つ。
本書もまた新たなシリーズの幕開けを待つ前の休憩といったことか。英題「Black Winter」は眠るための消灯を意味しているように私は思えた。

そして真賀田四季。
『四季 春』で生を受けたこの天才はしかし以前のような無機質な天才ではなくなっている。いっぱいやらなくてはならないことがあるために人への関与・興味をほとんど持たなかった天才少女は娘を生み、外の世界に飛び出して自分で生活をしたことで感受性、母性が備わり、慈愛に満ちた表情を見せるようになっている。

頭の中の演算処理が上手く行っている時にしか笑わなかった彼女が人の死に可哀想と思い、花を見て綺麗と感じ、空を見て色が美しいと思うようになっている。

そして真賀田四季研究所で娘が死んだ時に腕を切断した際のことを語る四季は突然涙を流す。彼女にとって死んだ人はもはや物でしかないはずなのに、やはり心の奥底では娘の死を悼んでいたのだ。

物語の最後、犀川は四季に問う。「人間がお好きですか」と。そして四季は「ええ……」と答える。綺麗な矛盾を備えているからと。論理的であることを常に好む彼女が行き着いたのは愛すべき矛盾の存在。それこそが人だったのだ。

真賀田四季はまだその生命を、いや存在を残してまだまだ色々とやることがあるようだ。但しその彼女は今までの彼女ではなく、人への興味を持ち、そして自らにその人格を取り込んで生きている。もはや時間を、空間をも超越し、終わりなき思弁を重ねる1人の類稀なる天才が神へとなるプロセスを描いたのがこのシリーズなのだ。そしてそれはまだ途上に過ぎない。

但し解るのはそこまでだ。それは仕様がない。なぜなら私のような凡人には天才の考えることは解らないのだから。

今後のシリーズで本書で生れた数々の疑問が解かれていくのだろう。その時またこの作品に戻り、意味を理解する。
ある意味本書が全ての森作品が行き着く先なのかもしれない。

No.1481 10点 四季 秋- 森博嗣 2021/02/16 23:26
四季シリーズ第3作目の本書は森作品ファンへの出血大サービスの1作となった。

今まで真賀田四季を主人公に彼女の生い立ちを描いてきたこのシリーズだが、3作目に当たる本書はそれまでと異なり、なかなか真賀田四季本人が登場せず、寧ろ犀川創平と西之園萌絵とのやり取りと保呂草潤平と各務亜樹良の再会とそれ以降が中心に語られ、S&Mシリーズの延長戦もしくはVシリーズのスピンオフといった趣向で、主人公である真賀田四季は全283ページ中たった10ページしか登場しないという異色の作品だ。

ファンにとって嬉しいのは両シリーズのオールキャスト勢揃いといった内容になっていることと今まで断片的であったS&MシリーズとVシリーズのリンクがもっと密接に結びつく内容になっていることだ。更に両シリーズのみならず、それまでの森作品のほとんどが結びつくようなものになっている。

しかし常々思っていたことだが、S&MシリーズとVシリーズ、やはり意識的に森氏はその趣を変えていたことが両シリーズが邂逅する本書で如実に判った。

S&Mシリーズが西之園萌絵の生い立ちに暗い翳を落としつつもその天然な天才少女とこれまた浮世離れした大学の助教授という組み合わせでライトノベル風に語られているのに対し、Vシリーズが小鳥遊練無と香具山紫子というコメディエンヌ(?)を配しつつも、登場人物間の関係に纏わる恋愛感情の縺れや諍いを描き、更に保呂草という犯罪者の暗躍も描いた少し大人風なダークの色合いを湛えており、それがそれぞれのパートで見事に対比できるのである。

まず犀川と萌絵の登場パートはシリーズ終了以降の2人が描かれる。それには短編集『虚空の逆マトリクス』に収録されていた「いつ入れ替わった?」で語られた犀川が婚約指輪を渡すエピソードも語られ、犀川と萌絵の結婚生活が始まりそうで始まらない状態で物語は進む。真賀田四季を追ってイタリアへと飛ぶが萌絵は婚前旅行と思い、嬉々としているが、犀川はようやく真賀田四季に逢えると思い、喜んでいるといったギャップがあり、結局そこでは何も恋愛沙汰は起きない。

一方保呂草と各務のパートは犯罪者の2人らしく大人のムードで話は進む。まあこれが実にスマートで、一昔前のトレンディドラマを観ているかのように台詞、仕草どれをとっても洒落ている。
そして保呂草は各務との再会を果たすために色んな人物と出逢ったことを後悔する。特に愛知県警の本部長を叔父に持つ西之園萌絵との再会は彼に日本の地を踏むことを半ば諦めさせるほどに。
ジャーナリストである各務が書くべき記事や原稿が沢山あると述べ、保呂草が自分でも何か書こうかなと零すシーンは彼がその後自分の一人称で始まるVシリーズを執筆することを仄めかしているようで面白い。

そしてやはり触れなければならないのは西之園萌絵と瀬在丸紅子、2大シリーズのヒロイン同士の邂逅だろう。
瀬在丸紅子は無言亭からどこかにある、ある金持ちによって移築された歴史建造物に管理人として住んでおり、使用人だった根来機千英は既におらず、1人で暮らしているようだ。
萌絵は犀川から婚約指輪を貰ったことで挨拶に行くために訪れたのだが、そこで萌絵は彼女から人生訓を授かる。
犀川創平が好きでたまらず、自分の物にし、自分の方だけを向いてもらいたい萌絵は、つまり若い女性にありがちな独占欲とも云うべき愛情を強く抱いている。
それに対し、紅子は一方向にしか風が来ない扇風機を愛するよりも全てに光を当てる太陽を愛でるように愛しなさい、それが許すということですと諭す。
私はこれを読んだ時にかつて祖父江七夏と犀川林を巡って醜い女の争いを繰り広げていた紅子がここまでの悟りの境地に至ったのかと驚き、そして感心した。

さて秋はやはり実りの秋と呼ばれる収穫の季節だ。まさにその季節が示す通り、収穫の多い作品となった。
前作で保呂草の許に飛んだと思われた各務は逆に保呂草に捕まり、その秘めたる恋を始まらせる。
西之園萌絵の収穫はやはり犀川との婚約だろう。そして彼の母親瀬在丸紅子との会談で得られた人生訓もまた大きな収穫だ。
犀川創平は妃真賀島の事件に隠された真賀田四季の動機がようやく明かされた。
まさに収穫の1冊である。

ともあれ起承転結の転に当たる本書は確かにシリーズにおける大転換を見せた作品だった。これは最終作の冬編にますます期待値が上がるというものである。愉しみにしていよう。

No.1480 7点 四季 夏- 森博嗣 2021/02/14 23:50
真賀田四季13~14歳の物語。妃真賀島にて真賀田四季研究所の建設が始まったのがこの頃。
そして13歳は思春期の始まり。感情に流されない左脳型天才少女は生まれてすぐに自我に目覚め、このような右脳型思考とは無縁だと思われたが、やはり彼女も人間。人を好きになるという感情、綺麗と思うこと、後悔することを意識し出す。そう感情の揺れを感じるようになる。

真賀田四季生い立ちの記とも云える4部作の第2部である本書では前作にも増してそれまでの森作品の登場人物が出演し、それぞれのシリーズの“その前”と“その後”が語られる。
そう、S&MシリーズとVシリーズの橋渡し的役割が色濃くなってきている。
そしてそれら登場人物たちの、それぞれのシリーズにおいても明確に語られなかった秘密や心情が真賀田四季のフィルタを通して更に詳しく語られる。それが実に面白い。

本書のメインはこの保呂草と真賀田四季の邂逅だろう。
全てを見抜く真賀田四季は各務亜樹良が外面はクールを装いながらも実は保呂草のことを愛しているのを見抜く。そして保呂草もまた各務亜樹良のことを愛している。しかしそれぞれ個を重んじる2人は相思相愛でありながらも一緒になれないと自覚している。
更に保呂草の美術専門の窃盗犯である所以もまた明らかになる。
彼は別にスリルを味わいたくて泥棒稼業をやっているのではなかった。またその稼業を生活の糧にしているのでもなかった。彼が盗みを働くのはただ1つ。その価値あるものがそれを持つに相応しい人の許に収まるべき、またはそれがあるに相応しい場所に収めるために彼は盗みを働くのである。これこそが保呂草潤平の美学なのだ。

夏は情熱の恋の季節と云う。
例えば先に書いた各務亜樹良は本書で退場するが、その理由は南米へ飛んだ保呂草潤平の後を追うためだ。彼女はもう自分に正直であろうと決意し、保呂草の許へと飛ぶのだ。この謎めいた女が実は心の奥底に斯くも情熱的な想いを抱いていたことを知るだけでも読む価値はある。
そして類稀なる天才少女真賀田四季もまた例外なく思春期を迎え、そして恋に落ちる。それは冷静でありながらもどこか破滅的、そして天才らしく冷ややかに情熱的な恋だった。
幼き頃からその天才性ゆえに全てにおいて誰よりも早い彼女は恋に落ちた途端にすぐに愛を交わし、そして妊娠を経験する。
彼女の相手は叔父の新藤清二。彼女は大学教授の両親の遺伝子を持っていながら医師である叔父の遺伝子を持っていないことで、その全てを備えた子供を作るために彼と寝たのだ。しかしそれはそんな打算だけではない。彼女は新藤に恋をし、彼を欲しいと思ったのだ。
また四季が子供を欲しいと思ったきっかけが瀬在丸紅子であった。彼女が認めた天才の一人、瀬在丸紅子は子供を産んだことで全ての精神をリセットしたと四季は理解した。彼女は今まで出逢った人の中で瀬在丸紅子こそが自分によく似ていると感じていた。しかし彼女は紅子のように自分はリセット出来ないだろうと考えてはいたが、何かを忘れるという行為に憧れていた。そして紅子と同じように好きな人の子供を作れば何かが変わると思ったのだ。
四季が新藤と愛を交わしている時、エクスタシーに達する瞬間、彼女の中の全ての意識が、思考が全て停止するのを体験した。

しかし彼女はやはり情よりも理で生きる女性だった。妊娠をする、子供を産むという行為は本来であれば祝福されるべきなのにそれにショックを受ける両親が理解できない。ひたすら憤り、そして堕胎を促す両親に対して、四季は自らの手で彼らに引導を渡す。第1作『すべてがFになる』で語られていた事件が本書によって描かれるのだ。

本書では四季自身がとうとう両親に手を下す。そして彼女は近親者の子供を宿す。考えるだにおぞましい人生だ。
しかしその理路整然とした思考と態度ゆえに、森氏の渇いた、無駄を省いた理性的な文体も相まってその存在は血の色よりも純白に近い白、いや何ものにも染まらない透明さを思わせ、澄み切っている。

我が子という新しい生と両親の死という誕生と消滅の両方を経験した真賀田四季。彼女は平気で死について語る。
それはまさにコンピュータで使われる二進法、0と1しかない世界のように実に淡白だ。生と死の間に介在する人の情に対して彼女は全く頓着しない。必要であるか否かのみ、彼女の中で選択され、そして判断が下される。

そんな彼女の話はまだ秋、冬と続く。それ以降を知る私たちにそれまでの彼女を教えるかのように。いや更に我々の知らない四季のその後へと続くだろうか。

このシリーズはそれまで謎めいた存在だった真賀田四季という女性について知るための物語であるのに、近づいたかと思えば、読めば読むほど彼女の存在が遠くなる気がする。
冬に辿り着いた時、真賀田四季は一体どこに立っているのだろうか?

No.1479 7点 四季 春- 森博嗣 2021/02/14 00:47
真賀田四季。
森氏のデビュー作から登場し、常に森ワールドにおいて絶対的な天才として語られる女性。
本書はそんな謎めいた彼女の生い立ちをその名前四季に擬えて春夏秋冬の4作で語ったシリーズの第1作目に当たる。そしてこのシリーズはS&MシリーズとVシリーズに隠されたミッシングリンクを解き明かす重要なシリーズだとも云われている。

従って真賀田四季がまだ子供の頃からの話が綴られている。

しかし真賀田四季の生い立ちを描いた作品でありながら、一応事件は起きる。新藤病院内で発生する密室殺人だ。

その事件は解決されないままで終わることが記されている。但し四季は犯人である浅埜にある日そのことを知っていると告げ、浅埜はその後アフリカへ渡る。
つまり彼女にとって、いや作者にとって殺人事件は単に四季の性格を彩る一エピソードとして書いたに過ぎないのだろう。

そしてVシリーズの各務亜樹良と瀬在丸紅子も登場する。

四季の頭脳はまさしくコンピュータのCPUそのものなのだ。従って彼女は周りから自分の考えていることを文字にしてノートに書き留めておく、もしくは声に出して録音しておくことを周囲に勧められるが、そんなことでは追いつかないとして一蹴する。
それはそうだろう。パソコンの演算画面で一気に数十行のプログラムが書き出される様はそのまま四季の頭の中を示しているのだから。

従ってコンピュータの発明によって四季はようやく自分の処理能力と同等の速さを誇る機械が得られたことに喜ぶ。
そういう意味では真賀田四季は恵まれた天才だったのかもしれない。遠い昔にもしかしたら真賀田四季と同じような頭脳を持った天才がいてコンピュータがないことで自分が解き明かしたい命題を1/10程度、いやもしくはそれ以下の成果しか挙げられてなかった偉人もいたかもしれないのだから。

真賀田四季という不世出の天才が登場したのは本書刊行までではS&Mシリーズの『すべてがFになる』と『有限と微小のパン』のみ。後はVシリーズの『赤緑黒白』にカメオ出演した程度だが、それは四季としてではなかった。正直たったこれだけの作品の出演では真賀田四季の天才性については断片的にしか描かれず、私の中ではさも天才であるかのように描かれているという認識でしかなかった。
しかしこの4部作で森氏が彼女の本当の天才性を描くことをテーマにしたことで彼女が真の天才であることが徐々に解ってきた。

そうはいっても3歳で辞書を読み、数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で大学の学術書を読み耽り、6歳で物を作り出すといったエピソードで彼女が天才であると思ったわけではない。
そんなものは言葉であるからどうとでも書けるのだ。
例えば仏陀なんかは生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を差し、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と叫んだと云われているから、こちらの方がよほど天才だ。
つまりこれもまた仏陀が天才であったと誇張するエピソードに過ぎなく、これもまた想像力を働かせばどうとでも強調できるのだ。

では真賀田四季が天才であると感じるのはやはり彼女の思考のミステリアスな部分とそれから想起させられる頭の回転の速さを見事に森氏が描いているからだ。
常に感情を乱さず、もう1人の人格を他者に会話させながら、書物を読み、そして相手もしたりするところやそれらの台詞が示す洞察力の深さなどが彼女を天才であると認識させる。
最も驚いたのは最後の方で実の兄真賀田其志雄が自殺しているのを見て、兄の代わりになる才能を明日中にリストアップしましょうと各務亜樹良に提案する冷静さだ。
事態を把握した時には既にその数時間先、いや数日も数週間も、数年先も思考は及んでいるのだ。
こういったことを書ける森氏の発想が凄いのである。

天才を書けるのは天才を真に知る者とすれば、森氏の周りにそのような天才がいるのか、もしくは森氏自身が天才なのか。これまでの森作品と今に至ってなお新作で森ファンを驚喜させるの壮大な構想力を考えるとやはり後者であると思わざるにはいられない。

最後、四季は外の空気の冷たさを感じ、まだ蕾も付けていない桜の木を見ながら春を思って物語が閉じられる。つまりそれは常に内側に興味と思考を向けていた四季が外に向けて感覚を開かせ、自分以外のものに思考を巡らせたのだ。

春は出逢いと別れの季節である。
真賀田四季は2人の其志雄と別れ、そして瀬在丸紅子と西之園萌絵と出逢った。いやそれ以外の人物ともまた。
続く季節は夏。夏はどんな季節であろうか。それを真賀田四季は気付かせてくれるに違いない。

No.1478 7点 怪奇日和- ジョー・ヒル 2021/02/13 01:08
そのカメラで写真を撮られた人はその写真に写った人の記憶を無くすポラロイドカメラ、“ソラリド”に纏わる話を描いた「スナップショット」。
湾岸戦争帰りのサイコパスが出くわした事件で犠牲者を最小限に留めたとして英雄として祭り上げられ、その真相を探る地方紙記者の話「こめられた銃弾」。
ひょんなことで雲で出来た島に独り取り残された男が、もう1人のバンド仲間で恋をしてしまったハリエットとの関係を、バンド仲間のジューンが亡くなるまでの足取りを回想する「雲島」。
棘の雨により多数の死傷者を出す大惨事になったアメリカで引っ越して来た恋人とその母親が棘の雨によって亡くなったことを彼女の父親に伝えに行くレズビアンの女性ハニーサックル・スペックが遭遇する人々との出逢いと別れ、そして棘の雨の真相までを描いた「棘の雨」。

怪異譚、悲劇、青春恋物語にロードノヴェル。種類は違えどそのどれもにジョー・ヒルならではのテイストが満ちている。

それら奇想のアイデアを用いてヒルは人間ドラマを紡ぐ。ありもしない、起こりもしない道具や現象に出くわした時の人の心の在り様を丹念に描く。だからヒルの小説は文章量も多く、そして長くなるのだ。

邦題『怪奇日和』は正確ではない。本書に書かれているのは怪異ではあるが怪奇ではないからだ。各編に織り込まれるのは人の心の奇妙さ、生々しいまでの人間たちの本音。他者を犠牲にしてまでも自分を守ろうとする、もしくは自分勝手な理屈で他者を攻撃する人々の姿や心情だ。
原題は“Strange Weather”、即ち『異常気象』だ。そう、ここに書かれているのは人々の異常“気性”なのだ。ヒルはこれまでの作品で我々が心の中で、奥底で抱いている不平不満、本音を我々読者に曝け出してきた。それらはあまりにストレート過ぎるので時々目を背けたくなる。なぜならそこにある意味“自分”を見出してしまうからだ。
常日頃は仮面を被って隠している本心が非日常へと誘う出来事に直面することで仮面が外れ、剥き出しの自分が零れ出す。

例えば「スナップショット」では記憶を消去されるポラロイドカメラによって痴呆症のようになっていく妻のサポートを面倒見切れなくなった夫の嘆きが出てくる。その夫は妻を世界中の誰よりも愛して止まないが、愛だけでは克服できない限界を悟らされ、涙する。

「こめられた銃弾」は、もう人間の生々しい本性のオンパレードだ。自分のミスで誤った黒人の容疑者を撃ち殺してしまった白人警官はあらゆる言い訳で自らの行為を正当化する。黒人への嫌悪を隠さず、彼らが対等に振る舞うことはおろか、過ちを犯した自分の行為を暴こうとする憎き存在として侮蔑し、嫌悪するサイコパスが出るかと思えば、街の警察署長は有色人種差別の中傷被害を免れるため、一般の黒人を警官と偽らせて積極的に多様な人種から警察官を採用しているかのように振る舞う。

「雲島」では仲間からやがて異性と意識する男女混成バンドのメンバー間のすれ違いが描かれる。まあ、これは典型的だけど、やっぱり男女の間は友情だけに留まらなくなってくる展開は痛々しいものがある。

そして「棘の雨」は未体験の災害に見舞われたアメリカ人の姿とそんな危機的状況で露呈する本性にレズビアンの主人公が出くわす。

どの作品もなにがしか心に残るものはあるが、それらは喪失感であり、虚無感である。そんな感情が心の中を揺蕩う。
このモヤモヤとした心の中に留まるどんよりとした重い雲のような感慨を素直に文章にするのは何とも難しい。深い霧の中で一片のメモを見つけるような感じだ。本書の感想を的確に示す晴れ間までしばらく時間がかかりそうだ。

No.1477 10点 訣別- マイクル・コナリー 2021/02/11 23:38
今回ボッシュが追うのは2つの事件。1つは免許再取得によって再開させた私立探偵稼業において、大富豪のホイットニー・ヴァンスから若き頃に別れることになった大学食堂の女性との間に生まれたと思われる子供の正体と行方を捜す依頼。
もう1つは嘱託の刑事として勤務するサンフェルナンド署の未解決事件、<網戸切り>と名付けられた連続レイプ犯を追う事件だ。
コナリーはこの2つの話を実にバランスよく配分して物語を推し進める。これら2つの話はよくあるミステリのように意外な共通点があるわけではなく、平衡状態、つまり全く別の物語として進むが、コナリーは決してそれら2つの話に不均衡さを持たせない。どちらも同じ密度と濃度で語り、読者を牽引する。そう、本書はボッシュの私立探偵小説と警察小説を同時に味わうことができる、非常に贅沢な作りになっているのだ。

さて、まず私立探偵のパートではチャンドラーへのオマージュが最初からプンプン匂う。それもそのはずで本書の原題“The Wrong Side Of Goodbye”そのものがチャンドラーの『長いお別れ』、原題“The Long Goodbye”へのオマージュが明確であり、大金持ちの家への訪問とこれまたフィリップ・マーロウの長編第1作『大いなる眠り』を髣髴とさせる導入部。
その富豪の依頼は親によって別れさせられた、かつて愛した女性が宿した自分の子供探し。この内容だけがチャンドラーには沿っていないが、私立探偵小説としては実に魅力的な内容だ。
そしてこの1950年に別れた女性の足跡を辿る、つまり約70年も前の過去の足取りを、それまで培ってきた未解決事件捜査のノウハウと刑事の直感で切れそうな糸を慎重に手繰り寄せるように一つ一つ辿っていくボッシュの捜査はなかなかにスリリングで、しかも人生の綾をじっくりと味わわせる旨味に満ちている。

一方連続レイプ犯<網戸切り>を追う警察パートもまたこれに勝るとも劣らない。事件の捜査の歩みは遅いが、レイプ未遂の事件が起きるとそこからの展開は警察捜査と犯人の不可解な行動から推測される現場に残された手掛かりを辿るきめ細やかさはボッシュが閃きと優れた洞察力を持った一流の刑事であることを示すに十分な内容だ。
そして同僚のベラの消息が不明になった後の怒濤の展開はまさにコナリーならではの疾走感に満ちている。

人は長い間、何かを抱えて生きている。それはまたボッシュもまた同じだ。
今回探していた人物が自身と同じヴェトナム戦争に従軍し、もしかしたら同じ船に乗っていたかもしれない奇妙な繋がりをボッシュは感じる。そして彼の思いはヴェトナム戦争へと向いていく。
そんな過去を抱えてボッシュはそれでもなお犯行を起こす側でなく、犯罪者を捕まえる側にいる。その理由は彼が最後に述べる。それについては後述しよう。

本書は警察小説に私立探偵小説だけでなく、これにリーガルミステリも加わった、1粒で3度美味しい、非常に豪勢な作品である。

彼が最後に被害に遭った同僚のベラ・ルルデスを鼓舞するように話す、自身の血に刻まれた警官というDNA。やはりこのヒエロニムス・ボッシュことハリー・ボッシュは全身刑事なのだという想いを強くした。

彼は我々とは訣別しなかった。原題“Wrong Side Of Goodbye”。それは物語のエピローグに登場する彫刻家の作品のタイトル『グッドバイの反対側』でもある―しかしこの訳はどうにかならなかったのか。私なら『さようならの裏側』と付けるのだが―。この訳に従えばそれは別れではなく出逢いを意味する。

しかしもう1つ考えられるのは“Born on the wrong side of the blanket”で「非嫡出子として生まれる」という意味がある。その内容は本書を当たられたい。
とにかく色んな意味を含んだ、言葉の匠コナリーらしいタイトルだ。

No.1476 3点 工学部・水柿助教授の逡巡- 森博嗣 2020/07/23 00:36
水柿助教授シリーズ第2作目。前作に劣らず、本書でも森氏は自分の思いの丈を存分に語っている。これほど作者の嗜好が、思考がダダ洩れしている作品もないだろう。まさに気の向くまま、思いつくままに書かれている。
これは作者に全てを委ねることを許した幻冬舎だからこそ書けた作品集である。
いやあ、実際作者に好き勝手やらせ過ぎである。本書の出版に際して編集会議がきちんとなされたのか甚だ疑問だ。いやもしくは当時そんな反対意見を差し込めないほどに森氏の作家としての権威が既に高かったということなのか。

今回全体を通して読むと、やはり本書は森氏の私小説と云えるだろう。第1話では理系思考の作者がなぜミステリィ作家になったのか、そのギャップを埋めようと云う意図で書かれているとさえ吐露している―しかしあまりに自由奔放に書き過ぎて全く成功していないようだが―。
結局この企みは成功せず、物語の主軸は一大学の一助教授だった森氏が経験した小説家になったことでの生活のギャップが綴られていく。

また本書の中での水柿君のある心境の変化が興味深い。
助手時代は好きなことをして賃金ももらえるなんて幸せだと思っていたのに、助教授になって研究以外の仕事が増え、特に会議が増えたことで苦痛を覚え、これだけ我慢して嫌な時間を過ごしているのだからお金を貰えて当然だと思うようになったこと。ただ助手時代は好きなことができたが給料は安かったのに対し、助教授では助手時代の2倍以上の給料をもらうようになったのは嫌なことをしなければならない対価が増えたのだと考えているところだ。
私は労働報酬とは嫌なことを我慢してやったことへの対価であり、生活のためにその我慢をしているのであるという考えの持ち主なのでこの水柿君の後半の考えには全く同意だ。
一方で社会人になって一度も好きなことをさせてもらってその上給料まで貰って幸せだ、なんて思ったことは一度もない。かつて勉強させてもらった上に給料も貰っているんだから幸せだと云っていた上司がいたが、当時はサーヴィス残業当たり前の風潮だったので何云ってんだ、コイツと思ったものだ。

おっと作者の心情ダダ洩れの作品だっただけに私の心情も思わず露出してしまったようだ。

さて本書は大学の助教授だった水柿君が奥様の須磨子さんの何気ない提案から小説を書くようになり、それが出版社に認められ、あれよあれよという間に売れっ子作家になって貧乏から脱け出し、お金持ちになったところで幕が引く。

しかし私はこの件を読んで、売れる作家と売れない作家の境界とは一体何なのだろうかと考えてしまった。

ここではもう敢えて水柿君と呼ばず森氏と呼ぶことにするが、森氏が特に小説家になりたいと願ったわけでもなく、偶々手遊びで小説を書いたらそれが編集者の目に留まって一躍売れるほどになった。しかも森氏は自分が小説を書きたいと思って書いてるわけではなく、依頼が来るから書いていると非常にビジネスライクだ。
一方で小説が好きでいつか自分も小説家になりたいと願い、何度も複数の新人賞に応募して落選を繰り返し、ようやくその苦労が実を結び、晴れて作家になれて、自分の創作意欲が迸るままに作品を書いて発表しながらもさほど売れない作家もいる。
熱意があってもその作家の作品が売れるとは限らないが、逆にさほど熱意もないのに書いたら売れている作家がいるというのは何とも人生とはアンフェアだなと感じざるを得ない。それは森氏は天才であり、このような書き方は森氏しかできないことなのだ。つまり一般人が、いや少しばかり才能があっても天才には敵わない現実を知らされた思いが本書を読んでするのである。

本書を冷静に読める作家は果たして何人いるのだろうか。私が同業者ならば自分の境遇と照らし合わせて身悶えするはずだ。ある意味本書は作家殺しのシリーズだ。
さて残りはあと1冊。しかし宣言通りに3作書き、それがきちんと刊行されたということはそれなりに売れたということか。売れる作家は何書いても売れる。やはり作家殺しだ、この本は。

No.1475 5点 氷のスフィンクス- ジュール・ヴェルヌ 2020/07/13 23:43
本書はヴェルヌ作品の中でも今までにない変わった内容となっている。それはエドガー・アラン・ポーの小説『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』が下敷きになっているのだが、それはこのポーの創作と思われる作品が事実であるという前提で、しかもそのポーの作品の登場人物たちが本書の登場人物に浅からぬ縁があり、さらには身分を偽って登場するという展開を見せる。
即ちこれはヴェルヌによる先述のポー作品の続編ともいうべき作品なのだ。

さてこの特殊な構造の作品について色々考えるところがある。

1つはポーの件の小説にインスパイアされたヴェルヌが自身も南極を舞台に物語を紡ごうと考えた時に―私は原典の作品を読んだことはないが―自らその世界観の中での話を書きたいと強く願ったことが動機になったこと。恐らくはこれが本当の理由だろう。

もう1つ思うのはシュリーマンのエピソードだ。トロイの木馬という神話を史実であると信じてそれを証明した彼の姿が本書の登場人物ジョーリングと重なる。無論登場人物たちがポーの作品の登場人物そのもの、もしくは所縁の者たちであるとの違いがあるが、ジョーリングがポーの作品の読者であり、その作品に魅了された彼が偶然その所縁の人物たちと出逢うところが何とも創作から出た真実に導かれる、その流れがシュリーマンの話を想起させてならない。
てっきり作り話だと思われていたことが実は本当にあったことだった、という展開は冒険好きには何とも堪らない設定だ。

また本書はヴェルヌの極地探検小説の集大成とも呼ばれている作品で、19世紀末当時の船舶設備と航海術での南極行の困難さと厳しさが描かれているのもまた特徴的だ。その極寒の地で次から次へと訪れる苦難とそれに加えて南極行のために新たに雇った船員たちによる叛乱と彼らにほだされた船員たちの裏切りといった自然のみならず人間間の戦いのドラマが描かれており、それはさながらアリステア・マクリーンの小説を読んでいるかのようだ。
特に最終、氷山に打ち上げられた彼らの乗るスクーナー船、ハルブレイン号が氷の融解により支えを失い、複数の船員を巻き添えにして転落していくシーンは今までのヴェルヌにない現実的な地獄絵図を見せつける。

さて題名ともなっている氷のスフィンクスとは一体何なのか?
この不思議な言葉は2回物語に登場する。

最初はジョーリングの夢の中で南極点で出遭う、最も高い視座で南極を見下ろす、不可侵的存在。

次は物語の最終で彼が南極から脱出しようとしている時に立ち塞がる氷の山塊として。そしてその山塊は強力な磁力を持っており、それによって逃げることが叶わなかったポーの小説の主人公アーサー・ピムの亡骸とダーク・ピーターズが再会するのだ。
つまり氷のスフィンクスは数々の冒険者を葬ってきた絶対的存在、つまり南極点そのものの象徴であることを示しつつもそこから生還することがいかに困難かを思い知らす試練そのものであるとも云えよう。

No.1474 8点 ザ・ボーダー- ドン・ウィンズロウ 2020/07/12 00:51
『犬の力』から始まる、かつての義兄弟だった麻薬王アダン・バレーラと麻薬取締官アート・ケラーの因縁の物語最終章である。しかしアダン・バレーラは前作『ザ・カルテル』でセータ隊との最終決戦の場で命を喪い、既に退場している。しかしこの男の権力の影響がいかに大きかったか、それを彼の死によって再び麻薬戦争の混沌が激化するメキシコを描いたのが本書である。
『ザ・カルテル』では3.5ページに亘って殺害されたジャーナリストの名が連ねられていたが、本書でも同様で実に細かい文字で2ページに亘って2014年に拉致され殺害された43名の学生たちの名前が書き連ねられている。更に2017年に殺害されたジャーナリスト、ハビエル・バルデス・カルデナスと世界中のジャーナリストの献辞が捧げられている。
時代は下り、犠牲者の数は減ったのかもしれないが、実情は全く変わっていないのだと思わされる献辞である。

今回ケラーが戦う舞台はメキシコではない。彼の舞台はアメリカ本土。
自分が所属している麻薬取締局、アメリカ上院、そして合衆国大統領らがケラーの相手なのだ。
つまりアメリカという病理との戦いがこのサーガの最終幕となっている。

まだ子供だった頃、麻薬という言葉を初めて聞いた時、その恐ろしさからてっきり「魔薬」と書くものだと思っていた。
本書の中でもアメリカが参戦した最も長い戦争はヴェトナム戦争でもなくアフガニスタンでもなく、麻薬戦争なのだと書かれている。もう50年も経ち、今なお続いている。私が生まれる前から続いているのだ。
そしてケラーにとってそれは40年にも及ぶ戦いだ。裏切りと違法捜査、そして殺戮の連続の40年。

正義対悪の構造を持ちながら、肥大する麻薬カルテル達―何しろ自前の軍隊まで持っているボスもいる!―に立ち向かう政府機関の連中ももはや綺麗ごと、正攻法では彼らに敵わなくなっている。毒を以て毒を制す。従って巨大な麻薬カルテルの息の根を止めるには正義の側も悪に染まる必要があるのだ。

いつ終わるとも知れぬ偽りと裏切りの日々を暮す。いつ正体がバレ、家に乗り込まれるかと怯えながら夜中に突然起き出す日々。自然表情や言動が殺伐としたものになり、いつかは一緒になろうと決めた相手の心が離れていく。そしてそれを止められない自分がいる。
もっと大きな悪を捕まえるために命の危険性が高いフェンタニル―なんと触っただけで死に至る劇薬だ―の取引を見過ごし、そのフェンタニルの過剰摂取によって死んだ者を目の当たりにする。

…読書中、こんな思いが頻りに過ぎる。
ここまで人生を賭けて、生活を犠牲にして、心を病んで戦わなければならないものなのか、麻薬戦争というものは?
しかしウィンズロウはそれを読者に見事に納得させる。彼は麻薬ビジネスに関わる人たちの点描を描くことで麻薬に手を出したことでいかに彼ら彼女らが不幸になっていくか、悲惨な末路を丹念に描いていくのだ。
作る側、売る側だけでなく、それを運ぶ側、知らないうちに巻き込まれてしまう側、そして使う側それぞれの変化を描くことで上の切なる疑問に対する回答をウィンズロウは我々読者に与えていく。

いや正確には我々読者の良心に問いかけているのだろう。
こんな人たちが現実に起こっているのにそれでも貴方は見て見ぬふりができますか?
そしてその問いに隠されているウィンズロウの痛烈なメッセージは次のようなものだろう。
もしそれが出来るならば貴方もまたカルテルの仲間なのですよ、と。

断言しよう。アート・ケラーは再び我々の前に姿を現すだろうことを。
しかしそれは即ち裏返せば麻薬戦争が終わらない、麻薬カルテルが一掃されないメキシコの惨状が続くことを意味している。それならばたとえウィンズロウの一読者としてもケラーとの再会は望まない。一人の人間として本書が本当に最終章になることを望むばかりだ。

No.1473 8点 おかしな二人―岡嶋二人盛衰記- 評論・エッセイ 2020/07/10 00:07
二人一組の作家の創作方法とコンビ存続もしくは解消の事情については断片的に語られる、もしくはプライベートなことだからと秘されているのが大抵で藤子不二雄についてもWikipediaでその経緯や理由について触れられているが出典不明扱いとされている。
従って本書のように詳らかに二人一組の作家の裏事情が語られるのは稀有なことで、その分非常に興味深く読むことができた。その内容は二人一組の作家の創作活動の困難さと苦難、そして変わっていく人間関係の哀しさが如実に表れている。


まず驚いたのは岡嶋二人の最盛期は江戸川乱歩賞受賞その時にあり、そこから2人のコンビは坂道を転がるように崩れていったとある。それを実証するかのように乱歩賞を受賞するまでが「盛の部」と付けられ、受賞してからのプロ作家としての活動は「衰の部」となり、「盛の部」の分量はほぼ半分もある。つまりそれほどデビューが長かったのだ。
確かにデビューに至る道のりは長い。

共通の友人を介して知り合った徳山氏。1972年に初めて出逢った2人はその後すぐにコンビを組むわけでもなく、共同で映画製作と写真撮影を請け負う会社を設立するが、全く仕事をすることなく、1年も経たずに消滅。その後も2人の付き合いは続きながらようやくミステリ作家としての一歩を踏み出すのが1977年。そして乱歩賞受賞が1982年とそこから6年を要する。
これほどまでに長くかかったのは井上氏と徳山氏が非常に計画性がなく、行き当たりばったりで生きていることに由来する。この2人の生き方は生活の確たる基盤という物を感じさせず、普通の会社人である私は絶対に出来ない生き方である。

しかしこの雌伏の時にこそその後の岡嶋二人作品の萌芽が育っていたことが綴られる。
この時の2人の対話こそが岡嶋二人という作家の本質と云っていいだろう。時間は無限にある中、お互い思い付きで話す話題がミステリの種になり、ストーリーを生み出すことへ繋がっていく。好き嫌いが激しく、飽きっぽい井上氏は徳山氏の出すネタを詰まらないと思うと一蹴し、それを受けた徳山氏は次にはまた新しいネタや新展開を考えて語り出す。
我儘な井上氏と粘り強い徳山氏。この組み合わせでなければ生まれなかったアイデアがこのデビュー前の対話で繰り広げられる。

本書の冒頭で井上氏はこの対話こそ岡嶋二人の創作活動そのものであるので、岡嶋作品のネタバレをバンバン行うと宣言しているが、まさにこの2人の対話はネタバレそのものだ。いやむしろそれを書かないと逆にこれほどミステリが、ストーリーが生まれる経緯は解らないし、詳しく書いてくれたことで実に興味深く読むことができた。代表作とされる『99%の誘拐』、『クラインの壺』のアイデアも既にこの段階で生れていることに驚かされる。
そしてアイデアを小説にしていくことの難しさ。それまで全く小説などを書いたことのない2人がいかにしてミステリを書くに至ったかなどが語られる。

そんなところから始まった岡嶋二人が受賞に至るまでの道のりは、これから作家を目指す人たちにも読んでほしい内容が詰まっている。

乱歩賞受賞作『焦茶色のパステル』の創作経緯は実に面白かった。ミステリの核となるアイデアは勿論のこと、それを軸に物語にいかに起伏を持たせ、読む者の興味を惹くか、そしてそれを成功させるために主人公をどのように設定するか。今まで『ミステリーの書き方』など作家の創作方法を紹介したエッセイを読んできたが、これほどまでのページを費やしてその経緯を書かれた物はなかった。そして賞を獲るためにはここまで綿密に作品の内容を練らなければ通用しないのだと云うことを痛感させられる。
そして乱歩賞受賞者のみが知るその舞台裏。右も左も解らぬ状態で講談社に招かれ、いきなり記者会見。そしてその後すぐ1週間後に受賞後第1作の短編を書くよう要請されること。ここまでの件をこれから乱歩賞を目指す人には是非とも読んでほしいところだ。受賞するための傾向と対策が、受賞後まで書かれているからだ。つまり受賞を望むには受賞作だけでなく、受賞後第1作の短編まで用意しておかなければならないことを知っておかねばならない。

そしてこの最初に訪れる厳しい締切が岡嶋二人解散のカウントダウンの始まりだったことが述べられる。

そこからはその後の岡嶋氏の活躍からは全く想像できなかった苦しみが延々と綴られ、驚きの連続だ。
受賞作の『焦茶色のパステル』よりも同時受賞した中津文彦氏の『黄金流砂』の方が売れ、デビュー早々に「売れない作家」のレッテルを貼られたこと。
乱歩賞受賞が講談社のみならず他の出版社からの原稿依頼を多数招き、常に締切に追われるようになり、かつてのような徳山氏との対話をする時間が次第に失われていったこと。しかもネームヴァリューも低いから1年に数冊出さないと生計が立てられないため、それを飲まざるを得ないこと。
そしてアイデア案出の徳山氏が次第にその役割を怠るようになり、文章係の井上氏が締切に圧迫され、更に状況が悪くなる。パソコン通信という新しいツールを得てそれぞれが話し合うために移動する時間を節約したにもかかわらず、井上氏側の視点から語られる、徳山氏の応対がどんどん悪化していくこと。
そんな中でかつての2人が持っていたコンビネーションを存分に発揮した作品が傑作『99%の誘拐』であったことが明かされている。

始まったものにはいつか終わりが来る。井上氏と徳山氏によって生み出された岡嶋二人というミステリ作家。その作家によって生み出された作品は赤川次郎氏、西村京太郎氏や内田康夫氏などのベストセラー作家に比べて売り上げは低かっただろう。しかしミステリのガイドブックには彼らの作品は多数挙げられており、その評価は高い。特に『99%の誘拐』は後年文庫のミステリで1位を獲得するに至った。
それはしかしてっきり2人による合作作家という強みを活かしたゆえの結果だと思っていたが、実情は全く違っていたことを改めて本書で知り、驚いた次第だ。無論これは全て井上氏側から語られた話であるため、一方的ではあるのだが。
性格の違い、発想の違いというミスマッチが生み出す妙。それが岡嶋二人の正体だった。しかしやがてその違いが次第に歪みを生み、崩れていく。その始まりが何とデビューとなった乱歩賞受賞だったのは何とも皮肉な話だ。
親しい者が仲たがいしていくのは読んでいて胸が痛くなる。岡嶋二人であった時の2人の関係は、徳山氏側は解らないが、井上氏は苦痛しか感じなくなっていくのが辛くなってくる。なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのかとずっと思いながら創作していたのが行間から滲み出ているのだ。

井上氏側から書かれた徳山氏は自分の周りにいる、Yesと答えながら結局何もやらない要領のいい男のように映った。なぜかこういう男は困ったことに憎めない。井上氏がコンビ解消した後も創作中に彼のことが浮かぶのは彼が仕事ぶりは欠点ばかりだが人間として魅力あるからだ。彼は井上氏に知らない世界を見せ、そして彼をミステリ作家に導いた。そして彼はミステリ作家になる術を、知恵を井上氏に授けたのだ。

井上氏がビートルズフリークであるからだろうか。私はこの感想を書いている今、ビートルズの曲のある有名な一節がふと頭に浮かんだ。
“When I find myself in time of trouble, Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be”
(自分が困っている時、マリア様が来て、知恵の言葉を授けてくれる。あるがままに、と)
“Let It Be”の歌い出しの一節である。

世間を知らないビートルズフリークの、映像関係の仕事に就きたいと野心だけを抱く小生意気な若造が妻子を抱え、明日をも知れぬ生活をしている最中にミステリ創作の知恵を授け、岡嶋二人となり、そして最後通牒を突き付けられ去っていった徳山氏。そんな彼の姿がこの歌詞に重なる。
井上氏にとって徳山氏は知恵の言葉を授けてくれるマリアだったのではないだろうか。
徳山氏がいなかったら岡嶋二人は生まれなかったし、そして井上夢人も生まれなかった。

彼は今いったいどこで何をしているのだろうか。しかし井上氏がこのエッセイの結び「終わりに」に書いたように、今でも井上氏が創作している最中に彼が現れ、知恵を授けているに違いない。
Let It Be、イズミが思った通りに書いたらいいよ、と。

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