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No.159 7点 大渦巻への落下・灯台―ポー短編集III SF&ファンタジー編―- エドガー・アラン・ポー 2015/10/25 18:51
2009年に新潮文庫から、アメリカ文学研究者・巽孝之氏の編訳で、2冊のポー短編集が刊行されました。ゴシック編と銘打たれた『黒猫・アッシャー家の崩壊』と、ミステリ編の『モルグ街の殺人・黄金虫』です。全2巻で完結したものとばかり思っていたのですが、売り上げが順調なのか(?)今年2015年になって、突然、3冊目の本書、SF&ファンタジー編『大渦巻への落下・灯台』が追加されました。
前の2冊を、本サイトでレヴューしている関係上(その「編訳」に関しては不満が大きかったものの)、この巻だけ無視するわけにもいくまいと、手に取りました。
収録作は、以下の7作。

「大渦巻への落下」「使い切った男」「タール博士とフェザー教授の療法」「メルツェルのチェス・プレイヤー」「メロンタ・タウタ」「アルンハイムの地所」「灯台」

目次を見ての率直な印象は――なんだこの作品選択は!? でしたね。
SFとファンタジーに境界線を引かない編集方針は、いきおい収録作品のヴァラエティを生むとしても、しかし自動人形のイカサマをあばく「メルツェルのチェス・プレイヤー」や、造園芸術(美)の理想をカタチにした「アルンハイムの地所」などは、どちらの分野から見ても違うのでは? それに、千年後の未来が舞台で、月世界人まで描かれた「メロンタ・タウタ」(1849)が採られているのは当然としても、ポーをSFの先覚者として評価するなら、まず一番に収録すべきは、人類初の月旅行を描いた「ハンス・プファアルの無類の冒険」(1835 未完)ではないの?? というか、“気球”という格好の共通項もあるこのふたつのお話を、なぜ並べてみせない???

訳者自身の手になる、巻末の「解説」を読むと、そのへんの事情はある程度、推察できます。ポーのSFアンソロジーの先行例として、巽氏は、ハロルド・ビーバー編のThe Science Fiction of Edgar Allan Poe(1976)と、それにもとづく八木敏雄・編訳『ポオのSF』全2巻(講談社文庫 1979~80)をあげ、本書は「(……)そうした先人の業績をふまえつつ、訳者なりのひねりを加えたものである」と述べています。参考まで、その『ポオのSF』の収録作を挙げておきましょう。

〈1〉「ハンス・プファールの無類の冒険」「メロンタ・タウタ」「瓶から出た手記」「大渦への落下」「シェヘラザードの千二夜の物語」「ヴァルドマール氏の症状の真相」「のこぎり山奇談」「ミイラとの論争」「使いきった男」
〈2〉「ユリイカ」「エイロスとチャーミオンの会話」「モノスとユーナの対話」」「催眠術の啓示」「言葉の力」「タール博士とフェザー教授の療法」

じつに堂々たるラインナップです。そして――どうしようもなく完成されてしまっている。後人が同一テーマでアンソロジーを編もうとしたら、まあ、このミニチュア版にならざるを得ません。でも、肝心の『ポオのSF』は版を絶やして久しいのだし、読みやすい新訳を提供し、解説に最新情報を盛り込めば、別にミニチュア版であろうがなかろうが、新規読者のためにはそれで構わないではないか、と筆者などは思います。
しかし巽氏は、そう思えなかったのでしょうね。アンソロジストの矜持か、学者の意地か。作品選択に「訳者なりのひねりを加えた」本書のラインナップを見てくれ、と。その意欲と挑戦は、玄人筋には高く評価されるかもしれません。前掲の「メルツェルのチェス・プレイヤー」や「アルンハイムの地所」を選択した理由も、解説のなかで詳しく述べられており、筆者には牽強付会に思えますが(たとえば後者の、人工楽園の麻薬的幻想にSFの想像力を見てとるのであれば、江戸川乱歩のかの『パノラマ島奇談』までSFの仲間になってしまうのではないか?)、卓見と見る向きもあるでしょう。
ただ、ミステリ・ファンとして言わせてもらえば、作品の解説のなかで、断わりなしに「使い切った男」と「タール博士とフェザー教授の療法」のネタバラシをしているのは、いただけません。解説を先に読む、ポー作品の初心者のことを考えましたか、巽先生?

さて。
さんざんケチをつけましたが……いわゆる定番名作といえるのは、巻頭の「大渦巻への落下」くらいであるにもかかわらず、他の収録作のレヴェルもきわめて高いので、「SF&ファンタジー編」とかいうことをあまり深く考えず、ポー短編集の「拾遺集」として読めば、本書は作者の多彩な魅力を堪能できる、贅沢な一冊です。
なにより、創元推理文庫の〈ポオ小説全集〉では読めない、未完の遺作「灯台」を収録しているのはポイントが高い。筆者は昔、ロバート・ブロックが補筆して完成させたヴァージョンを、早川書房の傑作アンソロジー『37の短篇』で読んでいましたが、まったく設定を失念しており、今回、こんなに魅力的なイントロだったのか、と感じ入りました。作中人物の灯台守が綴る日記が、結果として中絶してしまっているわけですが、逆にそれが、彼に何が起こったのかという、得も言われぬ不気味さを残すことになっています。ある意味、ホラーとしては、続きがないほうが怖い。
そして、このお話が「アルンハイムの地所」のあとに置かれていることで、その効果が最大になっていると、筆者には思えました。というのは、「アルンハイムの地所」の幕切れは、ポー作品のなかでも屈指の明るさに満ちているわけです。天上の輝きを思わせる、と言っても過言ではありません。その“明”と、直後の「灯台」の、底知れぬ“暗”のコントラスト。こればかりは、巽氏の配列の妙に脱帽です。
読後に広がる “暗黒の海”のイメージ。それはそのまま「大渦巻への落下」の海へとつながり――瓶詰めの手紙が投げ込まれた「メロンタ・タウタ」の海へもつながります。
って、困ったなあ。書いているうちに、また最初から読み返したくなってきてしまったぞwww

No.158 5点 オペラ座の怪人- ガストン・ルルー 2015/10/10 17:47
(……)華やかなオペラ座の地下に、自分だけの帝国を築き、そこで歌い、ピアノを弾き、曲を作りながら、醜いファントムは、昼の世界であたりまえに暮らすことを、夢見ていた。/ 誰も、彼の名前を呼んでくれない、一人きりの暗闇の中で……。/ この物語は、最後まで読まなければいけないと、遠子先輩は言った。そうでなければ、物語の真実を知ることはできないからと。(野村美月『“文学少女”と穢名の天使』)


『黄色い部屋の謎』(1907)の作者ガストン・ルルーが、日刊紙 Le Gaulois に1909年から翌10年にかけて連載した、フレンチ・ゴシック(ロマンス)の古典です。
先日読んだ、これをモチーフにしたライトノベルに触発され、じつに四半世紀以上の時を経ての、まさかの再読となりました。
まさかの、と書いたのは、初読時に、我慢しながら読み進めた印象が強かったからで、そのときの感想を回顧すれば――ゴシック・ロマンスの本場イギリスの、古城や修道院といったお約束の舞台ではなく、実在するパリ・オペラ座という、大都会の真ん中の華麗な空間で、怪人が跳梁するストーリーを繰り広げてみせた、ルルーの半端でない想像力には舌を巻くけれど、いかんせん、話の運びの大雑把さと冗漫な語り口が、興をそいでいるんだよなあ……ということになり、ミステリ・ファンなら、教養として一度は目を通しておくべき、でも一度目を通せばそれで充分と、まあ、そう考えていたわけですね。
『“文学少女”と穢名の天使』の作中キャラ・遠子先輩がいうところの、「物語の真実」を確認したくて、懐かしの創元推理文庫版(三輪秀彦訳)を引っぱり出してきました。最新の、光文社古典新訳文庫版ほか、別な翻訳を試してみることも考えたのですが、『穢名の天使』の「あとがき」で、作者・野村美月が参考文献として挙げている『オペラ座の怪人』が創元版なので、となると遠子先輩や心葉(このは)君が読んだのもこれだろうから、ここはやはり、作中人物と同じ版で、読書体験を共有しようかとw
その結果は――?
う~ん、基本的に、昔と変わりませんでしたwww

本作には、「序文」が付されています。それによると、伝説的に語りつがれる、怪人“オペラ座の幽霊(ファントム)”の調査をはじめた、「わたし」ことガストン・ルルーが、三十年前にオペラ座で発生した一連の不可解な事件に、実際にファントムが関与していたことを突きとめ、その真相を、さまざまな証言をもとに小説的に再構成したのが、この作品ということになります。ゴシック小説の先駆けとなった、ホレス・ウォルポールの『オトラント城綺譚』が、そもそもは実話として刊行された“偽書”であったことを想起させます。
荒唐無稽なお話に“現実感”を付与する試みとして、別に、それはそれでかまわないわけですが、肝心のストーリーの途中でも、作者があれこれ出しゃばってコメントを加えているのは、いただけません。駄目な小説の書きかたの、見本みたいになってしまっています(これについては、またあとで触れることになります)。
ミステリとして見ると、ファントムの引きおこす、さまざまな不思議な現象の種明かしが、どれもこれもショボすぎ(支配人室の「安全ピン」をめぐるエピソード――いちおう、不可能犯罪ですw ――なんかは、急にユーモア・ミステリが始まったよ、みたいなノリで、個人的に嫌いではないんですけどね)。ま、ショボくても種明かしがあるだけマシなほうで、物語の序盤、オペラ上演中にシャンデリアが落下し、客席の女性が死亡する“事故”は、確実にファントムの仕業なのですが(本人はすっとぼけていますが)、どんな手段でそれが可能になったのかは、いっさい説明されません。
小説としては、ヒーローとヒロインの恋物語が、途中から登場する謎のペルシア人の活躍で、後半、完全に後景に追いやられてしまうバランスの悪さがなんとも……。じつはファントムとペルシア人のドラマのほうが、凡庸な恋物語より面白かったりするわけなんですが、そうは言っても……。う~ん、困った。
そんな、欠点だらけの小説が、なぜ時代を超えて愛され、読み継がれているのか? その理由がラストに分かる――というのが、“文学少女”の主張でした。
なるほど。
みんな、ラストのアレで感動してしまうわけか。それで全部、許すと。共感できる“怪人”像。読み返してみて、その理由は納得できました。
でもねえ、筆者は駄目です。醒めた目でみてしまう。確かにファントムは救われた、それにより、ラウル(ヒーロー)もクリスチーヌ(ヒロイン)も救われた。でも、このストーカー殺人犯の犠牲になった人々は救われないよ。わけもわからないまま、オペラの主役の座を追われた女優(彼女の性格の悪さは別問題)は? シャンデリアの下敷きにされた女性は? 
作者自身が全力でファントムを擁護するのも、どうかなあ。

 可哀そうで不幸なエリック!(……)普通の顔をしていたら、人類のなかで最も気高い一人となりえただろうに、彼は自分の天分を隠して、それを使って悪いいたずらをせざるをえなかったのだ!(……)絶対に、オペラ座の幽霊には同情すべきなのだ! / わたしは、かずかずの犯罪にもかかわらず、彼の遺体に祈りを捧げた。そして神よ、どうか彼を哀れに思ってください! なぜ神はあれほど醜い人間を創ったのだろうか?(引用終わり)

これは逆効果にしか思えない。当然、みんなでツッコむべきですよ。醜いファントムを創ったのは、ルルー、お前だろ! と。

オペラ座という舞台の、地上と地下を縦横に使った、お話の構想自体は素晴らしいものです。しかし、仕上げは粗く、小説技法の古さもあって、畢竟、最後にファントムに感情移入できるかどうかが、評価のすべてを分けることになってしまっています。筆者は、真の傑作というものは、キャラクターへの感情移入とは別に存在するものだと考えます。

No.157 6点 “文学少女”と穢名(けがれな)の天使(アンジュ)- 野村美月 2015/09/26 14:30
聖条学園・文芸部の部長、天野遠子(あまの とおこ)と、文芸部の後輩、「ぼく」こと井上心葉(いのうえ このは)のコンビで進行する、ミステリ・タッチのライトノベル“文学少女”シリーズの第4作(2007年刊)です。
しかし今回は、3年生の遠子先輩が遅まきながら受験勉強のため休部を宣言し――時まさに12月。いまから本気を出す模様――もっぱら物語の後景に退いているため、心葉の相方としてスポットがあたるのは、クラスメイトの琴吹ななせ(第1作『死にたがりの道化(ピエロ)』から登場している、心葉に好意をもつ、一見、テンプレ的なツンデレ・キャラ)です。彼女の親友で、音楽学校に通う水戸夕歌が、突然、失踪したことから、平和な日常に亀裂が走り、ストーリーは動きだします。

それまで、ずっと伸び悩んでいたのが嘘のように、急速な成長を見せ、次の発表会のオペラ・コンサートでは主役にも選ばれ、まさにこれからという時期に、夕歌はなぜ姿をくらましたのか? 『わたしの先生は、音楽の天使です』、そう秘密めかして語っていた夕歌。失踪には、その“音楽の天使”が関係しているのか? ななせのため、懸命に探索に乗り出した心葉のまえに浮かび上がる夕歌の肖像は、しかし親友のななせの知るそれとは、あまりにもかけ離れたものだった……。「もし、水戸さんが犯罪者だとしても、琴吹さんを裏切っていたとしても……きみは、知りたいと思える?」「……あたしは、知りたいし、夕歌を助けたい」

毎回、内外の有名な文芸作品を下敷きにした“事件”が描かれるのが、このシリーズの特色(あたかも人間関係や全体の構図を既存の名作からトレースしたように見えながら、じつはそれをズラして変えていく面白さ)ですが、今回は、元ネタが、遠子先輩いわく「暗く退廃的な美に彩られたゴシック小説が、ファントムが見せた真実によって、最後の最後に、胸が震えるような、透明な物語に変わってゆく――」ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』です。
筆者は、創元推理文庫から初の完訳が出たさいに『オペラ座の怪人』は一読していますが、正直、大時代な語り口もあって冗長なお話という印象しか残っていませんでした。その後、名優ロン・チェイニーが怪人ファントムを演じた、ユニバーサル映画版をDVDで見て、ああ、これは映像化の勝利だなあ、この成功で原作も生き延びたとおぼしい――と勝手に納得していたくらいです(恥ずかしながら、有名な、劇団四季のミュージカルは未見なのですよ)。それが、本書に込められた、熱い原作リスペクト――些細なことですが、中学時代のななせが、心葉に恋をするきっかけとして、小道具として「安全ピン」が使われているのには、元ネタの記憶を呼び覚まされ、驚きつつも感心しました――に触れることで、無性に『オペラ座の怪人』を読み返したくなってきたことを告白します。
心葉の一人称語りと、別なキャラクターの手になる文章(本作では、どこかで夕歌が綴っていると思しい内容)を効果的におりまぜる手法は健在で、例によって、ライトノベルじゃなくヘビーノベルだろ、と突っ込みたくなる作品世界を構築し、意外な、そして心揺さぶるクライマックスを導きます。
細部のリアリティという点では、“天使”に該当するキャラクターの、日常生活がまったくスルーされているのが難点で、オペラ座の地下ならぬ、廃工場で暮らしている(あるいは、いた)としか思えないわけですが……モノホンの怪人じゃあるまいし、んな莫迦な。
文字の書かれた紙をバリバリ食べちゃう、人間ばなれした“文学少女”が主役をつとめるお話ではあっても、いやだからこそ、そのお約束以外の部分では、虚構を支えるもっともらしさ(この場合で言えば、問題の工場を生活圏とする、不自然な日常の理由づけのようなもの)に、大いに意を尽くすべきだと、ロートルの小説読みたる筆者は思います。感動で誤魔化されるには、こちらが、ちとトシをとりすぎました (^_^;)
前作『繋がれた愚者(フール)』の、衝撃の結末を補完する内容は盛り込まれていますが、そこからの直接的な発展はないので、シリーズ全体としては、本書はつなぎのエピソードでしょう。別の言いかたをすれば、おそらく、嵐の前の静けさ。水面下で別のストーリーが進行していたことが分かり(この、バック・ストーリーの工夫が、野村美月はとにかく巧い)、前作同様、およそ続きを読まずにはいられない“引き”で、『穢名の天使』は幕を閉じます。
問題は、このあと。
シリーズものとして、次作では怒涛のストーリー展開が予想されますが……同時に、それについて何を書いても、ネタバラシになってしまうことが懸念されます。無事、このサイトで内容を紹介できるや否や。大いなる不安を抱いている、筆者なのです。

No.156 1点 魔神の歌- 甲賀三郎 2015/07/14 15:23
……闇を掠めて夜あらしは
時こそくれと狂ふなる
魔神の叫びものすごや――

嵐の夜、酔っぱらって帰宅した医学教授が、自宅の戸口で、後頭部を重い石(東京近郊では珍しい、礫岩)で一撃され、殺される。当夜、教授の留守宅で夫人と話しこんでいた、後輩の医学士である「私」は、犯行の直前に、あたかも魔神が跳梁するさまを歌ったような、不思議な歌声を耳にしていた。それは「(……)粗野な自然そのもののような声だった。が然しそれは人間の肉声とは思えないような潤いと弾性のある金属的なものだった」。いったい誰が、何のためにそんな歌を? 被害者は優秀な学者だったが、品性劣悪で恨んでいる者も多かった。奇妙な凶器の出所も分からぬまま、警察の捜査は暗礁に乗りあげ、事件は、「私」と未亡人への疑惑を残しつつ、迷宮入りするのだが……

諸事情から、あまり本を読む時間がとれないでいるので、今回は、いささか反則ではありますが、サクッと目を通せる「短編」をご紹介。
近年、ミステリ関連の古い叢書の「書影&作品目録」といった、見て楽しい研究書や、戦前の翻訳ミステリの復刻版をシリーズで出すなど、マニア向けのプライベート出版に意欲的な、湘南探偵倶楽部が、「甲賀三郎BEST 1」と銘打って2013年に刊行した、24ページの小冊子――ひらたく云えばコピー本です。
初出は『新青年』昭和9年7月号。のち、春秋社の短編集『ものいふ牌』(昭11)に収録されましたが、戦後の再録はありません。
これは筆者のような、若輩の(?)甲賀三郎ファンには、まことに有難い企画ですが……
一読、首をひねる羽目に。
湘南探偵倶楽部の刊行案内には「本格探偵小説 秀逸です」とありますが、作中の謎は別段、推理によることなく、「私」の行動に従ってひとりでに解けていくので、これを「本格」と称するのは苦しい。
でも、それはまあ、いいとしましょう。問題は、事件の真相。はっきりいって、異常です。意外ではなく、異常。ある科学者がそういう研究をおこなっていて――という前提はあっても、同じ作者の、やはり綺談タイプの秀作「蜘蛛」などと違って、完全にファンタジーの領域に踏み込んでいるので、なんでもありの超展開と大差ありません。
たとえるなら、「ホームズ短編 BEST 1」として、「這う男」が推されるようなもの。怪作としてのインパクトは認めますが、しかし……
筆者的には、甲賀三郎の BEST はやはり、「黄鳥の嘆き」(「二川家殺人事件」)*です。

ところで。
「魔神の歌」が発表された昭和9年は、甲賀が作家デビューして12年目にあたり、『ぷろふいる』誌には「誰が裁いたか」「血液型殺人事件」といった力作を投じ、そして翌10年には、前掲の「黄鳥の嘆き」を『新青年』に発表しています。このへんの作品の筆致には、作家としての円熟が感じられ、じつは「魔神の歌」の、「私」と被害者の妻の関係性(けっして不倫をしているわけではないのだが、しかし……)などにも、妙にあとを引く小説的な魅力――初期の甲賀にはおよそ感じられなかったような――があります。
そのへんを考慮すれば、もう少し採点をオマケしてもいいか、と悩んだのですが、中途半端に3点を付けたりするよりは、インパクトのある1点のほうが、むしろこの作品にはふさわしいと判断しました。
バカミス愛好家は、お試しあれ。

*「黄鳥の嘆き」については、『体温計殺人事件』(〈甲賀三郎全集〉第8巻)のレヴューのなかで、具体的に触れています。よろしければご併読ください。

No.155 7点 “文学少女”と繋がれた愚者(フール)- 野村美月 2015/05/29 17:28
・・・・・絶句。
狙いすました、最後の一撃(フィニッシング・ストローク)の破壊力たるや。
いやしかし、そこで終わるかあ。
昨今のアニメ・ファンなら、3話切りという風潮をご存じでしょう。スタートした新作を、とりあえず3話あたりまでは視聴して、以降、その作品を見続けるかどうかを決める、というものです。製作サイドもそれを意識してか、3話で俄然、衝撃的な展開を見せるアニメもあるわけで……ふと、そんなことが頭をよぎりました。
野村美月の“文学少女”シリーズは、聖条学園・文芸部の部長、天野遠子(あまの とおこ)と、文芸部の後輩、「ぼく」こと 井上心葉(いのうえ このは)のコンビが、学園生活のなかで、身辺に発生した“事件”(毎回、内外のなんらかの文芸作品が元ネタになっているのが特徴)を解明していく、ミステリ風味のライトノベルです。本書『繋がれた愚者(フール)』は、『死にたがりの道化(ピエロ)』、『飢え渇く幽霊(ゴースト)』に続く、その第3作。

今回、文芸部は文化祭で劇を上演することになり、その演目に、武者小路実篤の『友情』が選ばれます。前作と違い、モチーフが早い段階で提示されるわけで、そのお題を使って本篇の“事件”をどう料理するかが、作者の腕の見せ所となります。
恥ずかしながら、筆者はこの元ネタを未読だったので(だってねえ――と遠い昔の学生時代に思いを馳せる――人殺しの話ばっかり読んでるような、性格の悪いガキだった自分には、伝え聞く白樺派の性善説は、あまりにも縁遠いものみたいな気がして……)、いったん読書を中断し、どうせならこの機会にと腹をくくり、図書館から日本文学全集の『武者小路實篤集』を借りてきました。で、いまさらながら『友情』に目を通して、意外にこちらのミステリ・センサーに反応するものがあって、ちょっとビックリしたわけですが、そのビックリについては、あとで、あらためて触れることにします。
便宜上、まず簡単に『友情』のストーリーを紹介しておくと――

新進の脚本家・野島は、友人の妹である、美貌の杉子(16歳!)に一目惚れしてしまう。せつなく苦しい恋心を打ち明け、相談できるのは、日頃から尊敬しあい、切磋琢磨している、大親友の作家・大宮だけだった。大宮は、野島の恋の成就のため協力してくれていたが、あるとき突然、勉強のためヨーロッパへ行くと告げ、旅立つ。やがて、心を決め、杉子にプロポーズする野島だったが……                      

と、まあ、そんな感じのお話。
それを「ぼく」が脚色して、急遽――絶対的な部員数不足を補うため――遠子先輩が招集したメンバー(これまでの巻にも登場していたキャラクター陣)と一緒に、芝居を作っていくことになるわけですが、“事件”の主役となるのは、大宮役に起用された、「ぼく」のクラスメイト、芥川一詩(あくたがわ かずし)です。学業優秀、誠実な人柄の芥川君ですが、じつは心に深い傷を負っており、危うい精神状態にあったことが、ストーリーの進行とともに分かってきます。語り手・心葉の一人称とは別に、他の登場人物の視点による記述がカットバックで描かれるのは、前2作同様で、本作ではそれが、「オレ」の書き続ける謎めいた手紙であり、書き手が芥川君であることは、早くに読者には明らかになります。
『友情』に関して、厳しく張りつめた表情で「――たとえどんな理由があっても、自分を信頼している友人を裏切るような真似は、誠意ある人間のすべきことではない」と感想を述べていた彼は――本当に、弓道部の先輩の彼女を奪ったのか? 劇の練習の最中、突然の呼び出しに応じて飛び出した芥川君は、やがて、血のしたたる彫刻刀を握りしめて立っているところを、見つかります。喉と胸を切り裂かれ、倒れ込んだ生徒の前で。「オレが五十嵐先輩を、刺しました」。それは、果たして三角関係の清算だったのか?

いや~、どこが「ライト」ノベルやねん、といいたくなる「ヘビー」な展開ですが、それを、辟易させずに面白く読ませるための演出、シリアス成分とギャグ要素のブレンドは、この作者ならではのものでしょう。そして、過去への巡礼(すべての遠因となった、小学校時代の出来事の調査)を経て訪れるクライマックス――文化祭の、劇の舞台でアドリブ的に繰り広げられる“文学少女”の謎解きは、芥川君を繋ぐ過去の鎖を断ち切り、彼に、前に進む勇気をあたえます。これはやはり、感動的。
ところが。
そんな感動のまま読み進める「エピローグ」の、最後の数ページにいたり、急速に広がる不安感。待てよ、これはいったい、どういうことなんだ?
とどめが、最後の一行なわけです。
!!!
なかなか、これほどのどんでん返しには、純正のミステリのほうでもお目にかかれません。似たような例として思い浮かぶのは、トマス・H・クックのある作品ですが、一発勝負的な、そうした趣向を、シリーズものの3作目に持ってきたというのは、凄い。
ただし、明らかに説明不足です。作者はそんなことは百も承知で、意外性を、次作への強烈な“引き”として使っているわけで(単体としての本作では、謎があえて解かれないまま終わるわけで)、ミステリ・ファンとしては、そこは評価の難しいところではあります。
長編マンガの、何巻目が面白かった、という感覚に近いところがある。
しかし。
「手紙」を使ったアイデアといい、そこから立ち上がる構図といい、じつに巧妙に『友情』をアレンジしたものです。元ネタの料理の仕方という点では、間違いなく、これまでで最高です。

なお、本書では、当然ながら、武者小路実篤の『友情』のストーリーが、最後まで明かされています。ネタバラシが問題になるような小説ではないのですが、それでも『友情』は二部構成をとっており、主人公視点の「上篇」では分からなかった事実が、書簡形式の「下篇」で次々に明らかになっていく、という、その意味ではミステリ仕立てといっていいお話なので(筆者はそこに感心したw)、本書を読むまえに目を通しておくほうが吉ではあります。あ、そのさいは、作者の「自序」はスルーして、『友情』本文を先に読むように。実篤自身がネタバラシしてますからwww

No.154 7点 怪奇文学大山脈Ⅲ- アンソロジー(国内編集者) 2015/05/01 09:38
「西洋近代名作選【諸雑誌氾濫篇】」と副題のついた本書(東京創元社)は、編者・荒俣宏氏の、“幻想と怪奇”の分野における仕事の総決算ともいうべき、入魂のアンソロジー・シリーズ(ボリュームたっぷりの「まえがき」と「作品解説」に注ぎ込まれた、情熱と情報の総和は圧倒的)の最終巻です。
第Ⅱ巻に引き続き、本書も二〇世紀前半の怪奇小説の流れを、荒俣氏のパースペクティブに基づき選び抜かれた実作を通し、展望する試みですが、今回の大きな特色は、マニア的な固定観念に縛られず、当時の俗受けした雑誌メディアや娯楽として人気を誇った演劇の分野に、その時代の怪奇の嗜好を探っていることです。「したがって、現代の目から見れば道義上適切といえないものや、煽情性が高すぎる作品も含まれることになった」(「第三巻 作品解説」より)。
いっとき話題になったあと忘れ去られ、後世の研究者からは通俗ものとして片づけられ、一顧だにされないような作品にも、あえて光を当て、再評価の可能性をさぐっています(このへん、戦前の探偵小説に惹かれ、甲賀三郎や大下宇陀児の微妙なところにも手を伸ばし、玉石混淆のなかから、少しでも玉を拾おうとしている筆者には、とても他人事とは思えませんw)。
収録作は、まずイギリスの小説雑誌の掲載作から――

1.スティーヴン・クレーン「枷をはめられて」
2.イーディス・ネズビット「闇の力」
3.ジョン・バカン「アシュトルトの樹林」

が採られていますが、このへんはまだ、ことさら煽情的というほどでもない。バカンの3(エキゾティックな小説が花盛りだった、『ザ・ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』の掲載作)などは、異国の神を“物理”で駆逐する、なんとも乱暴な話でありながら、その筆致には格調すら感じられます。やはり、作家としての地力が違うのは明白ですね。けっして『三十九階段』だけの人ではありません。もっと怪談を訳して欲しいぞ。
次いで紹介されるのはドイツ勢です。

4.グスタフ・マイリンク「蝋人形小屋」
5.カール・ハンス・シュトローブル「舞踏会の夜」
6.アルフ・フォン・チブルカ「カミーユ・フラマリオンの著名なる『ある彗星の話』の驚くべき後日譚」
7.カール・ツー・オイレンブルク「ラトゥク――あるグロテスク」

このブロックは、おもに(風刺週刊誌に発表された4を除いて)世界初の怪奇文芸専門雑誌とされる『デア・オルキデーンガルテン』の見本市という性格をもっています。なかで特筆すべきは、恋の終わりの仮面舞踏会の夜に、現実と幻想がないまぜになり――冷え冷えした災厄の到来で幕を閉じる(「解説」でも触れられているように、ポオの「赤き死の仮面」を想起させる)、シュトローブルの5でしょう。うん、なんかねえ、怪奇「文学」してる。筆者の苦手な不条理系の話ですが、そういう人間でも推さざるを得ないというのは、つまり、傑作ということ。ぶっちゃけ、この巻には勿体ないくらいですw
この巻らしさ(猥雑さ)が明確に打ち出されるのは、

8.モーリス・ルヴェル「赤い光の中で」
9.野尻抱影「物音・足音」(ルヴェルの、日本における翻訳紹介の経緯を綴ったエッセイ)
10.ガストン・ルルー「悪魔を見た男」(戯曲)
11.アンドレ・ド・ロルド「わたしは告発……されている」(恐怖劇の代表的作者による、マニフェスト)
12.アンドレ・ド・ロルド&アンリ・ボーシュ「幻覚実験室」(戯曲)
13.アンドレ・ド・ロルド&ウジェーヌ・モレル「最後の拷問」(戯曲)

という、フランス編からです。若き日のディクスン・カーをも刺激した、残虐劇グラン・ギニョルの概要は、ミステリ・ファンなら――好き嫌いはともかく――基礎教養として押さえておくべきでしょう(より踏み込みたい人には、水声社から出ている、真野倫平編『グラン=ギニョル傑作選 ベル・エポックの恐怖演劇』という本があるようです)。いきなり戯曲を載せるのではなく、導入として、「グラン・ギニョルのコンパクトな恐怖劇を文学で表現した作品」を書いたと評される、ルヴェルの短編を置いているのもいい。これがアンソロジストの芸というものです。で、ルルーを経てド・ロルドの台本などを実際に読んでみると……まあ、歴史的価値だよなあ、という感想に落ち着くわけですがw
このグラン・ギニョルの煽情性が、アメリカのパルプ・マガジン文化に影響を及ぼしている、という荒俣史観はまことに興味深いもので、最後のアメリカ編は、それを裏付けるようなセレクションになっています。

14.W・C・モロー「不屈の敵」
15.マックス・ブランド「ジョン・オヴィントンの帰還」
16.H・S・ホワイトヘッド「唇」
17.E・ホフマン・プライス「悪魔の娘」
18.ワイアット・ブラッシンゲーム「責め苦の申し子」
19.ロバート・レスリー・ベレム「死を売る男」
20.L・ロン・ハバード「猫嫌い」
21.M・E・カウンセルマン「七子」

名門(?)『ウィアード・テールズ』から選出された、ホワイトヘッドやカウンセルマンの作などは、普通に怪奇小説(ないしファンタジー)として、今日的な評価に耐えうる出来ですが、上述のような煽情性という意味では、群小の有害(?)パルプ誌から掘り起こされた、17~19あたりが、当時の読者のニーズにストレートに応えたであろう、エロなりグロなりを感じさせ、納得の内容といえますw そしてここでは、突き抜けた衝撃性(グロの極み)が、場当たり的な面白さを越えて――もしかして、これは傑作? という域にまで達した、モローの14をイチオシしておきましょう。舞台はインド。藩主(ラージャ)に反抗した召使いが、罰として、まず右腕を切断され、なお反旗をひるがえしたばかりに、残る腕、そして両足と、四肢を失う羽目になるが……その果てに待つものは? 編集者時代のアンブローズ・ビアスが惚れ込んだというW・C・モローは、今後の紹介が期待されます。

ふう。お腹一杯になりました。
この巨大アンソロジーの編纂にあたられた荒俣氏には、心から、お疲れさまでしたの言葉を送りたいと思います。「おそらく本書は、私が西洋の怪奇小説について真摯に語る最後の機会になると思われる」という言には、一抹の寂しさを覚えますが、この全3巻の偉業にふれた若い読者のなかから、必ずや荒俣氏のあとに続く怪奇者が育っていくことでしょう。筆者はそれを信じています。

No.153 1点 白魔- 大下宇陀児 2015/03/17 15:53
今回はネタバラシありです <(_ _)>

女優との結婚をまぢかに控え、それを妨害するかのような脅迫状に悩まされていた若い彫刻家が、ある晩、観劇に出かけた銀座の裏通りで、世にも奇妙な消失をとげる。これに、現場付近のビルで発見された、身元不明の男の死体がからみ、事件は紛糾していく。新たな失踪者。凶刃に倒れる捜査官。そんなカオスのなか、警察とは別に真相究明に動き出したのは、一寸法師の従僕をともなった、四本指の怪青年だった。果たして彼の目的は? そしてその正体は?

原稿枚数は二百枚ちょっとですから、いまの感覚だと中編なんですが、昭和七年に、新潮社の大衆雑誌『日の出』に連載されたあと、春陽堂の日本小説文庫から単体で刊行されています(奥付けの発行年月日は、昭和八年一月九日)。
まだ作者が、通俗長編で一世を風靡していた江戸川乱歩の引力圏を脱しきれていない時期の、『蛭川博士』(論創社『大下宇陀児探偵小説選Ⅰ』所収)系列の作品です。
はっきりいって、出来はいちじるしく悪い。人気作家が筆力にまかせて量産している時期には、やっちまった感のある作品も生まれがちなわけで、ファンなら目くじらをたてず、寛容の精神でスルーするのが吉というものですが・・・
わざわざ取りあげたのには、きわめて個人的な理由があります。ある発見を、記録しておきたかったからです。このサイトの投稿者の皆さんのなかにも、もしかしたら興味をもっていただけるかたが、一人か二人はいらっしゃるかも・・・と思いました。

若き日の筆者が多大の影響を受けたミステリ指南書に、都筑道夫氏の『黄色い部屋はいかに改装されたか?』があります。その「5 トリック無用は暴論か」のなかに、以下の記述があり、さて具体的に、誰の何の作品のことだろう? と、ずっと気になっていました。

(・・・)敗戦から間もなく、ハイティーンの私がカストリ出版社につとめて、最初に手がけた単行本が、某大家の長編でした。(・・・)戦前のものをもってきて、仙花紙本にしたわけです。/袋小路で殺人がおこなわれ、目撃者がいる。その目撃者のいうことには、犯人は自分に気づくと、ふわふわと宙に舞いあがって、片がわのビルの四階の窓に、逃げこんだ、というのです。いくらなんでも大家なんだから、なんとか理屈をつけるだろう、と思っていると、意外、それも悲しい意外で、証言はうそ、目撃者が犯人でした。うそでもいい。宙に舞いあがって、四階の窓に入らなければならない理由が、強力にあればまだ救われるけれど、それもないのです。/これは極端な例ですが、こういう作品が探偵小説として通用した時代に、逆もどりしていいはずはありません。(引用終わり)

ハイ、それがこの『白魔』だったのです。じつに、うん十年ごしの疑問が解消したわけで、それだけでまあ、読んだ価値はあったというもの。
もっとも、都筑氏は記憶違いをされており、袋小路で殺人はおこなわれていません。現場で昏倒しているのが見つかった、「目撃者」の証言を聞きましょう。

「僕は、今いった通り、青木君と一緒にルパン(カフェの名:引用者註)を出たまでは確かに覚えている。ところが、ルパンを出ると、その時実に途方もないことが起ったんだ。つまり、一緒にいた青木君が、風船みたいに、スーッと宙へ浮き上ってね、ルパンの向う側が、ほら、S三号館になってるだろう、あそこの四階の窓へ、消えるように入って行ってしまったんだよ。(・・・)それからあとを、僕はまるっきり覚えていないんだがねえ」(引用終わり)

くだんの「目撃者」は青木の彫刻の師匠で、彼の狙いは、青木が自分の妻と駆け落ちしたように見せかけることなのです。青木と妻をこっそり抹殺し、死体を処分し、青木の婚約者を我が物にするのが最終目的。なのになぜ、青木が空中浮遊? 自分が証言を疑われるだけでしょう(結末で捜査課長いわく「狂人の頭に湧いた考えは、ちょっと、常人には測り知られんものがあるよ」)。おまけに、なんとS三号館の四階には、たまたま男の死体が転がっていました。ふたつの事件が、まったくの偶然でクロスしてしまったのです。
ヒドいですねえw
瓢箪から駒のように飛び出した、このS三号館事件の関係者が、結果、探偵役となり、しかもそいつがアウトローで、というあたりに宇陀児らしいテイストはありますが、四本指という属性に意味はないし、従僕が一寸法師である必要性もありません。
最後まで読んでも、結局タイトルの意味が分からないことからも(しいて云えば――青木が最後に受けとった、裏にHの署名がある「白紙」の脅迫状、その送り主をさしているのかなあ)、きちんと構想をまとめず、とにかく書きはじめたことが想像されます。
まあ、宇陀児も疲れていたんだということでwww
トリック偏重を否定する文脈で、わざわざこれを持ち出す都筑氏も、都筑氏ですがね(ため息)。
今後、復刊される可能性はゼロに等しいでしょうから、あえて細部にまで立ち入りコメントしました。諒とされたし。

No.152 7点 紺碧海岸のメグレ- ジョルジュ・シムノン 2015/02/17 15:40
長いこと、シムノンを敬遠してきました。
クリスティー、クイーン、カーなんかに夢中になっていた、ミステリ入門期の中学時代に、河出書房がソフトカバーのメグレ警視シリーズを出しはじめていたので、とりあえず何冊か手にとってみたものの、どうもその良さが分からなかった。帯に刷り込まれていた「 シムノンがわかるかどうかを、その人の小説読みとしての程度をはかる尺度にしていたことが、私にはある。(……)推理小説にも、小説としてのうまさを求めるひとは、シムノンのメグレ・シリーズを読むがいい」という、都筑道夫氏の推薦文にも、微妙な反発を感じ、自分はただのミステリ読みで結構と、意固地になってしまったというのもあります。
その後、『夜明けの睡魔』の瀬戸川猛資氏の影響もあって、海外の“現代本格”を試していく過程で、P・D・ジェイムズやルース・レンデル(のレジ・ウェクスフォード警部もの)などに、ときにメグレと似たテイストを感じ、シムノンの方向性、その普遍性を意識するようにはなりました。それでも――現代ミステリかくあるべし、そのお手本としてのシムノン、といった認めかたは、こちらの負けを認めるようで、したくない (^_^;)
ひとりで勝手に葛藤していたわけで、傍目には喜劇でしょう。
戦前抄訳しかなかった、1932年度作品の『自由酒場』が、論創海外ミステリから『紺碧海岸のメグレ』として完訳で復刊されたこの機会にと、過去の経緯はひとまず忘れてw 手を伸ばしてみました。

南フランスの、地中海に面し「カンヌに始まりマントンに終わる長い大通りで、六十キロメートルに及ぶ」リゾート地、紺碧海岸(コートダジュール)。そのアンティーブ岬に暮らす母娘が、不審な自動車事故を起こし、警官が彼女たちの家を調べてみると、同居していた男性(家は彼の名義)が刺殺体で、庭に埋められているのが見つかる。
被害者ウィリアム・ブラウンは、戦時中に軍情報部に協力しており、スパイ絡みの事件という予断で報道が過熱するおそれがあったため、これを早急に、かつ穏便に処理するため、パリ警視庁からメグレが派遣される。
ブラウンはオーストラリア人で、愛人とその母親と、もう十年もその別荘で暮らしていた。定職をもたず、月に一度、何日か外出しては当座の生活費をもって帰ってくるという、謎めいた生活だった。母娘の供述によると、ある晩、恒例の外出を終えて車で帰ってきたブラウンは、背中を刺されており、玄関までたどり着いたところで絶命したという。その死がもし、彼がオーストラリアに残してきた妻と子供たちに分かれば、家財を差し押さえられ無一文で追い出されると考え、母娘は死体を隠したうえで、金目のものを持って逃走をはかったらしい。
メグレは、たまたま手に入れた手掛りから、不在中のブラウンが訪れていた、カンヌの「自由酒場」の存在を突き止めるのだが、そこには被害者の、まったく別な生活があり・・・

翻訳は、原稿枚数にして三百枚ちょっと。メグレものらしく、短い長編なのですが(論創海外ミステリとしても、一、二を争う薄さです)、盛り込まれたドラマ――とりわけ被害者になった人物と、犯人になってしまった人物の織りなす――は濃密なものでした。
ふと都筑道夫氏の、シムノンとは全然関係ない、こんな文章を思い出しました。

 ひとことでいえば、「途中の家」のおわったところから、現代のミステリは、はじまるのである。(エッセイ「眠りの森」:『推理作家の出来るまで』所収)

エラリイ・クイーンの『途中の家(中途の家)』は優れた謎解き小説だが、被害者はなぜ、二重生活を続けたのか――その、人間関係のドラマのもっとも魅力的な謎に、作者は目を向けていない、それが二十年ぶりくらいに同書を読み返した都筑氏には、大きな不満だったというわけです。
そういう面では、本書はきわめて説得力に富みます。被害者が家族を捨てて紺碧海岸に住み続けたのも(“場”に説得力をもたせる、シムノンのデッサンの確かさ。こういうのは、まあ、中学生には分からなくても無理はないと、自分を慰めます)、寂しくて女を囲ったのも、やがてよそに楽しみを求めるようになったのも、その心理を、探偵役のメグレと一緒に完璧に理解していくことができます。
人物の対比的な配置といい、それを交差させる演出といい、小説としては、まずケチのつけようがありません。
でも。
あえて言わせてもらえば、ミステリとしては、やはり甘いのではないか。
大事な手掛りを、メグレがついうっかり(自分のものと勘違いして)持ちかえった被害者のレインコートのポケットから見つけるあたりの安易さ。
最終的な事件の決着にも、疑問は残ります。警察小説として、これでいいのか、という部分は、まあ人情噺として、心情的にギリギリ認めるとしても――たとえば、本サイトでレヴュー済の、ディクスン・カーの『帽子収集狂事件』などに比べたら、少なくとも共感はできます――ダミーの解決を提示できなければ、上司も世間も承知するはすがないでしょう。

長所(情)と短所(理)、そのどちらを重く見るかで、評価が分かれる作品ですね。
筆者としては、あくまでミステリ読みとして、もう少しプロットに工夫が欲しいという立場を固持します(現代ミステリには、情と理の両立を求めたいw)。
それでも、シムノンのうまさを、キチンと実感できたのは大きい。作者に対する、食わず嫌いを反省させるだけのものを、本書が持っていたのは、間違いありません。
なんでこれ、改訳の機会に恵まれず、79年も埋もれたままだったんでしょうねえ。

なお、巻末に「解説」はなく、「訳者あとがき」(佐藤絵里)だけですが、物語の背景や小道具にも言及された楽しい内容で、データ面にも配慮されており、これはマルです(注文をつけるとすれば、付された「ジョルジュ・シムノン主要著作リスト」の「主要」の判断がよく分からないことか)。今後は、このへんを基準にしてくださいね、同叢書の訳者のみなさん。

No.151 6点 アントニイ・バークリー書評集Vol.1- 評論・エッセイ 2015/02/13 11:17
当初、2014年冬のコミック・マーケットで販売され好評を博し、その後、Twitter を通して通販の対応もおこなわれた(筆者は、某古書店の委託販売で購入しました)インディーズの小冊子ですが、海外ミステリ・ファンにはきわめて重要度の高い内容なので、ご紹介する次第です。
黄金時代英国探偵小説の巨匠アントニイ・バークリーは、実作の筆を折ってからも、フランシス・アイルズ名義で晩年まで、書評活動をおこなっていました。本書は、1956年以降、彼が『ガーディアン』紙の日曜版で担当していたコーナーから、日本の本格ミステリ・ファンに人気の高い御三家――エラリイ・クイーン、ジョン・ディクスン・カー、アガサ・クリスティーの作品を対象にした書評を抜粋して翻訳し、当該作品の邦訳一覧と、編訳者(三門優祐)の手になる関連コラムを付したものです。
対象作品は、以下の通り。

エラリイ・クイーン
 クイーン警視自身の事件 / 最後の一撃 / 盤面の敵 / 第八の日 / 三角形の第四辺 / 顔 / 真鍮の家 / 孤独の島 / When Fell the Night*(のちの著作リストからは削除された、マンフレッド・リー主導の代作プロジェクトの一冊。リチャード・デミング作)

ジョン・ディクスン・カー
 火よ燃えろ! / 死者のノック / ハイチムニー荘の醜聞 / 雷鳴の中でも / ロンドン橋が落ちる / 悪魔のひじの家 / 月明かりの闇 / ヴードゥーの悪魔

アガサ・クリスティー
 死者のあやまち / パディントン発4時50分 / 蒼ざめた馬 / 鏡は横にひび割れて / 複数の時計 / カリブ海の秘密 / バートラム・ホテルにて / 終りなき夜に生れつく / 親指のうずき / フランクフルトへの乗客

すでに各所で話題になっていますが、興味深いのはやはり、アメリカのクイーンへの、歯に衣着せぬコメントの数かずでしょう。いわく「作中のエラリイ君は、5語で済むところを必ず50語喋るような、もったいぶったおしゃべり野郎だ」「これまで多くの推理小説を読んできたが、これほど説得力に欠ける解決編は滅多なことでは見かけない」」「読者をまごつかせるあからさまな感傷性、絶えざる誇張表現、作品全体に見られる「ありえなさ」、こじつけめいた結論」、エトセトラ、エトセトラ。今回、無条件で賞賛されているのは、ノン・シリーズの『孤独の島』一作きりですw
この癖のある、クイーン作品の悪口レヴューを最初にまとめて提示したのが、本書の成功の要因ですね。クイーン・ファンである筆者も、バークリー先生にあっちゃかなわないなあ、と苦笑しながら、楽しませてもらいました(本国アメリカの、同時代のミステリ業界人だと、お世話になっている EQMM の編集長でもあるクイーンに、ここまで率直なコメントをあびせることは出来なかったでしょう)。
対照的に、カーの、あまり誉めようがない作品に対するバークリーのコメンタリー(一例「鋭い鷹の眼を備えた評者にさえも、「ローブ」のことを「ドレッシング・ガウン」と呼ぶいかにも現代アメリカ的な瑕瑾を除けば、いかなる時代錯誤も見つけることはできなかった」)には、なんというか、友情を感じますw
クリスティーへの評価の高さも、微笑ましい。「ミセス・クリスティーの二級品が、多くの他の作家の最高傑作に匹敵することは覚えておいてしかるべきだ」ですからねえ。しかし、なかでも最大級の評価を受けているのが、『蒼ざめた馬』と『終りなき夜に生れつく』であるあたり、評者の個性(なるほど、フランシス・アイルズ名義は伊達じゃない)は如何なく発揮されています。

バークリー・ファンへの贈り物にとどまらない、この刺激に富んだ企画を思いつき、実行に移し、そして完成させてみせた編訳者には、心からの賞賛を送ります。
と、誉めてるわりには点数が低い――ですか?
う~ん。
今後のためにも、あえて書いておくと、問題点は訳文にあります。
これだけ素人っぽい翻訳に接したのはひさしぶりで、ところどころ意味をとりかねました。
バークリーの原文は読んでいませんが、たとえば以下の、クリスティーの『鏡は横にひび割れて』評などは、訳者自身、内容をまったく理解しないで書いているとしか思えません。

 (・・・)私の主たる興味は作品の筋書きというよりむしろ、「一体なぜ、映画女優は自分が動いたような風に行動してしまったのか」という不可解な点を、抜け抜けと説明して見せた彼女の手腕にある。結婚したカップルによくある偶然をひとつ受け入れたとしても、二番目のひどくありえそうもない偶然は、本来、物語の中の真実を破壊する方向へと進むだろうから。それがどこにもつながっていないのだからなおさらである。(引用終わり)

好意的な声に甘んじることなく、訳者として研鑽を積んでください、三門さん。

(後記)* When Fell the Night は〈エラリー・クイーン外典コレクション〉の一冊として、『摩天楼のクローズドサークル』の訳題で、2015年11月に原書房から翻訳が出ました。(2015.11.22)

No.150 8点 “文学少女”と飢え渇く幽霊(ゴースト)- 野村美月 2015/01/16 06:57
物語を“食べちゃうくらい”愛している、自称・文学少女を主人公に、内外の文学作品がキイとなる事件をミステリ・タッチで描く、ライトノベルの人気シリーズの第二長編です(2006年刊)。
今回の導入は、こんな感じ。

聖条学園文芸部の部長・天野遠子が、校内の中庭に設置した恋愛相談ポストに、連日、おどろおどろしい文章の走り書きや、意味不明の数字を羅列したメモが、投げ込まれる。「わたしたちへの挑戦状ね。(……)今日から中庭で張り込みをするんだから。これは先輩命令よ、心葉(このは)くん」。
ヒートアップした先輩と、「ぼく」こと井上心葉――この二人しか文芸部員はいないのである――が夜中にポストを見張っていると、怪談めいた現象(校舎の明かりの点滅、鳴り響くラップ音、そして生々しいすすり泣き)が突発し、続けて、古い制服を着た少女が現われ、ノートに文字を書き、それをちぎってポストに入れはじめた。「九條夏夜乃(くじょう かやの)」と名乗る、この異様な雰囲気の少女は、遠子の問いかけをはぐらかし、笑いながら――「だってわたし、とっくに死んでるんですもの」――闇の中へ消えてしまう。
相変わらずの妄想モード全開で、この幽霊騒ぎ(?)に没入していく遠子に対し、面倒事に巻き込まれるのを厭う心葉は、君子危うきに近寄らずを実践しようとするが、遠子の下宿先の息子・櫻井流人から相談を持ちかけられ(「心葉さんの学校に好きな子がいるんだ。協力してくれないっすかね?」)、はからずも謎の追及にあたることになってしまう。
プレイボーイの流人がいま夢中になっている、問題の女の子、雨宮蛍は――
「あいつ、たまに別人になっちまうんです。夜になったり、薄暗い場所に行ったりすると、急に陽気になったり機嫌悪くなったりして、自分のこと『わたしは九條夏夜乃よ』なんて言い出すし」
なぜ、彼女は「夏夜乃」に変わってしまうのか? そして、文芸部のポストに投じられたメモの意味は?

前作『“文学少女”と死にたがりの道化』は、「ぼく」の一人称記述に、随所で、太宰治の『人間失格』に呪縛された別なキャラクターの文章が挿入される構成でした。本書も同様に、心葉のナレーションに、愛憎劇を繰り広げる「彼」と「彼女」の謎めいたモノローグが併置される構成をとっています。
モチーフとなる“題材”が明示されるのは、ストーリーが七割がた進行してからなのですが、作者自身が「あとがき」でネタバラシしているので、あえて書いてしまうと、本作の下敷きになっているのは、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』です。ベタな種明かしをともなうオカルト趣向や、マンガ・チックなエピソードは、あの、息づまる復讐劇の世界へ読者を誘うプレリュードにすぎません。
筆者は『嵐が丘』を、いちおう中学生のときに読んではいますが、ドロドロしたメロドラマが好みにあったとは言えず、ストーリーは、ほぼ忘却の彼方でした。まさかこういう形で、「彼」や「彼女」と“再会”することになるとは。
あ、もちろん元ネタを知らなければ駄目な話ではありませんよ。逆に、興味をもった若い読者が、未読の『嵐が丘』に手を伸ばしたくなるような、そんな書きかたを作者はしています(じつは筆者も、遠子先輩のあるセリフに触発されて、“操り”というミステリ的観点から、同書を読み返したくなってきました)。
しかし。
正直いって『嵐が丘』の基本設定をなぞった部分は、18~19世紀のイギリスならともかく、現代の日本が舞台では無理筋の感を否めない。「彼は外国で死んだことになっているけれど、悪事に手を染めて得た金で、別の名前と戸籍を手に入れて日本に戻ってきたのよ」というあたりの安直さは、ミステリ・プロパーの読者にはキビシイ。
う~ん、と思いながら読んでいたら・・・土壇場で、作者は『嵐が丘』をひと捻りしてくれました。そこからの怒涛の展開――謎解き、逆転、愛と憎しみのラリーの決着――は、目を見張るものがあります。ああ、これは堂々のアンサーソングだ。
そして「エピローグ」。
!!!
ドラマの舞台裏が、読者にだけ明らかになります。
なるほど、これが野村美月のミステリなのか――と納得しました。前作のレヴューで、筆者は「今回の手口は、繰り返し使うわけにはいかないだろう」と書いたのですが、良い意味で裏切られました。見事です。

本のページや紙に書かれた文字を、実際に食べてしまう“文学少女”のキャラクター属性にもだいぶ慣れてきましたw
本書のラスト近く、文芸部のポストに入れられたメモを、遠子が手にとって、書かれた数字(暗号通信)を見つめ、「(……)ときどき小さく喉を震わせながら、苦しそうに、悲しそうに、目をうるませて、最後の一枚まで食べ続け」る場面は、美しくすらあります。
こまごました瑕疵は、まあ、いいでしょう。
これは力のこもった、良い小説です。遅れてきた読者として、シリーズへの期待値を込めて8点を献上します。

No.149 6点 “文学少女”と死にたがりの道化(ピエロ)- 野村美月 2014/12/31 10:28
「わたしはベーカー街の名探偵でも、安楽椅子に座って編み物をしながら事件を解決する物知りおばあさんでもないわ。ただの“文学少女”よ」

ファミ通文庫ですw
内外の文学作品がモチーフとなる事件を、ミステリ・タッチで描く“文学少女”シリーズ(長編8、短編集4、外伝4)の、第1作目。カバー裏には、「口溶け軽めでちょっぴりビターな、ミステリ学園コメディ、開幕!!」と刷り込まれています。
じつはこれ、2006年の刊行直後、いまはすっかりご無沙汰していまっている若い友人のM君から、最近読んで面白かった本として、薦められたタイトルでした。彼の進取の気性と、読書家としてのセンスには一目置いていたので、買い求めはしましたが・・・ちょっと読んで、あまりにマンガチックな導入に鼻白み、そこで断念。その後、M君とのあいだでも、本書が話題にのぼることはありませんでした。
ところが。
最近になって、個人Twitter の企画「ライトノベル・少女小説から選ぶオールタイムベストミステリ」で、この作品が票を集め、第二十位に食い込んでいるのを見て、急にM君が思い出され、なんだか無性に読みたくなり、再び手に取ってみることにしました。
「失礼しまぁぁぁす! きゃうんっ!」と言って女の子が転んでも、何するものぞw
お話は、こんな感じで始まります。

高校の文芸部に所属する、ただ二人の部員。物語をこよなく愛する、自称“文学少女”天野遠子(あまの とおこ)――愛ゆえに、彼女は本(小説)のページを、むしゃむしゃ食べる!――と、若くして断筆した天才作家にして、いまはその正体を隠し、遠子のためだけにショート・ストーリーを紡ぐ“ぼく”こと、井上心葉(いのうえ このは)。
この二人が、ひょんな事から、後輩の竹田千愛(たけだ ちあ)の恋愛相談を受けることになる。部長の遠子の命令で、得意の文才を生かし、千愛の想い人であるという、弓道部の「片岡愁二」へのラブレターの代筆を始めた心葉。それが功を奏し、千愛の恋はうまく軌道に乗ったはずだったのだが・・・
彼女の態度への違和感から、片岡愁二のことを調べてみると、学内にそんな名前の生徒は存在しないことが分かる。問い詰める心葉に対し、あくまでその存在を主張する千愛は、愁二からもらったという手紙を見せるのだった。
「愁二先輩は、今、すごく苦しんでるんです……けど、あたし、バカだからよくわからなくて……だから、だから……お願いです、愁二先輩のこと、助けてあげてください」
『恥の多い生涯を送ってきました』――と始まるその手紙には、太宰治の『人間失格』に共感した片岡愁二という少年の、凄絶な内面が吐露されていた。殺人の告白、そして自殺のほのめかし。
ではやはり、彼は実在するのか? しかし――どこに存在するのか?

ラノベであっても、あくまで現代日本の日常をベースに物語が進行する本書は、超自然現象とは無縁です(本を食べる――という、ヒロインの人間ばなれしたキャラクター設定だけは、正直、この世のものとは思えませんが。この点は、よほどマンガ、アニメ耐性のある読者でないとキツイ)。なので、ミステリアスな状況設定にはあくまで合理的な理由づけがあり、「片岡愁二」をめぐる序盤の謎は、中心となる事件(スリーピング・マーダー)をあぶり出す役割を果たします。
その、過去の転落事件の解決に関しては――しかし安直のそしりを免れません。大の大人が、揃いも揃って、高校生のガキのまえで告白大会を始め、最終的には当事者同士で、罪の十字架を背負い続けることで自己完結してしまう(おまけに主人公側も含めて、誰も、真相を隠蔽することに抵抗を感じていない)。
ここ(五章 “文学少女”の推理)で終わっていたら、ただの凡作です。ところが本書の真価は、一見メインと思われた、その事件の謎解きのあとにこそ、ありました。
そこ(六章 “文学少女”の主張)に至り、お話はそれまで見せていた風景を一変させます。ああ、これはそういうミステリだったのか! 明と暗の、見事なコントラスト。
シリアスからコメディへ、コメディからシリアスへ、めくるめく転調を重ねるクライマックス(太宰治というモチーフに、ここで別な光が当てられる)は、感動的です。
前述のような瑕疵もあり(さらに言えば、もし過去にそうした事件が起こっていたら、屋上は閉鎖され、簡単に人が出入りできなくなるのでは?)、無条件で、一般のミステリ・ファンに推薦できるわけではありません。
でも、そんなことはどうでもいいw
ラノベであることを逆手にとったような、全体の仕掛けに唸った筆者としては、シリーズの、このあとが気になってしょうがありません。今回の手口は、繰り返し使うわけにはいかないだろう。では、ホワイダニットのような方向性でいくのか、それとも・・・?
どうやら、しばらく付き合うことになりそうです。

ごめん、M君、もっと早く読んで、君といろいろ話がしたかったね。

No.148 3点 盲目の目撃者- 甲賀三郎 2014/12/08 15:43
戦前の人気探偵作家・甲賀三郎の小説作品は、いちおう没後に全集(1947~48 湊書房)としてまとめられており、半世紀以上たってから復刻(2001 日本図書センター)もされています。その点では、ついに個人全集に恵まれなかった、同時代のライヴァル(とはいえ活動期間はより長く、戦後にも及ぶ)大下宇陀児より、恵まれているかもしれません。
しかし甲賀には、全集未収録の作品が山のようにあり、再発見・再評価を待っていますw

昭和22年(1947)刊の本書は、湊書房の全集がスタートする前に、松竹株式会社出版部でまとめられた作品集で(のち、東方社からも同題・同内容の本が出されています)、全集との収録作品の重複はありません。果たして埋もれた宝石はあるのか?
気になる中味のほうは――

 ①盲目の目撃者(昭6、サンデー毎日)
 ②鍵なくして開くべし(昭和5、新青年)
 ③原稿料の袋(昭3、新青年)

②と③は、論創ミステリの『甲賀三郎探偵小説選』にも採られた、探偵作家・土井江南(作者自身がモデル)とやはりシリーズ・キャラクターの青年紳士怪盗・葛城春雄が登場する(おっとネタバラシかw)、短編です。
酔った勢いと、懐の、貰ったばかりの原稿料に気持ちが大きくなり、夜の浅草に繰り出した土井に、「人殺しを見たくはありませんかね」と怪しい老人が声をかけてくる③は、錯綜したプロットを軽妙に語る、甲賀の話術が光りますが、まあ話術だけと云えなくもないwww
結局のところ、印象に残るのは、冒頭に登場する「ねばりのある女性的な関西弁」の同業者・床水政司(とこみずまさし)とか、「滅多に原稿料を出さない雑誌の編集をしている」満谷順(みつたにじゅん)とかの、楽屋ネタだったりします。
ミステリ的には、またしても酔っぱらった土井が、美女の頼みで、守銭奴の遺産の隠し場所探しに取り組む(ポオの「盗まれた手紙」が引き合いに出される)②のほうが、ひねりが利いていて面白いでしょう。謎解きにまつわる、金属の比重の計算とかは、筆者にはチンプンカンプンですがwww

ユーモアを打ち出した、これらの短編に対し、作者の論敵だった木々高太郎が、追悼文「甲賀三郎の思い出」のなかで、「『盲目の目撃者』『幽霊犯人』などが同氏の最も得意としたものであろう」と言及した表題作①は、原稿枚数200枚ほどの、サスペンス・タッチの(木々の表現を借りれば、「トリックを主とした通俗家庭小説風の」)メロドラマ。お話の導入は、こんな感じです。

嵐で外洋に沈んだ、客船ブラジル丸の生存者は、当初、富豪の遺産相続人である若い女性・民谷清子ひとりと思われていたが、船医の、「私」こと井田信一も九死に一生を得、遅れて帰国を果たした。助かりはしたものの、明日への希望を無くし、酒におぼれる日々を送っていた信一は、ひょんな事から、もうひとりの生存者が「民谷清子」だと知り、驚愕する。そんな莫迦な? 彼女は沈没前に、病気の悪化で亡くなっているはずだ。他でもない自分が、それを確認している。いま「民谷清子」を名乗っているのは、船上で彼女と親しくなり、熱心に見舞っていた――ひそかに信一が心惹かれた娘――草野妙子だ!
たまたま知遇を得た(何やら思惑を秘めて彼に接近してきた)、「民谷清子」の相続財産問題をあつかっているという、弁護士事務所の青年・緑川の助力で、信一は、ひそかに清子(妙子)と会い、入れ替わりの事情を確かめることを決意するのだが――深夜、待ち合わせの場所で発生した殺人事件が、彼を窮地に追いつめていく。凶器として現場に転がっていたのは、信一がブラジルで紛失したピストルだった・・・

う~ん、甲賀、書き直そうw
船医の信一がなんでピストルなんか持ってたの? まあそれは、治安が悪いから護身用に――で目をつぶるとしても(誰の持ち物か分かるように、わざわざ柄にイニシャルを刻むのも許そう)、紛失した経緯をスルーしてはいかんでしょ。問題のピストルがどうして日本に出現し、“その人物”の手に渡ったか、まったく分からない。分からないはずで、そもそも作者が考えてない。
窮地に立った信一を、謎の人物・緑川(彼の示唆で、ピストルの新たな所有者が判明)がいったん救い、しかしそれも束の間、今度はさらなる窮地が、信一と緑川ふたりを待っている(彼ら以外に犯人の存在しえない、密室状況下での殺人が発生)というジェットコースター的展開で乗り切れば、掲載誌は『新青年』じゃないし、探偵小説マニアでない一般読者からいちいち文句は出ないだろうと、甘く見たのかなあ。
思いつきで話を転がしているだけで、プロットがきちんと練り込まれていないのは、面白い(ないし面白くなる)要素がふんだんに盛り込まれているだけに、残念です。“盲目の目撃者”が証人となるという――彼女の鋭敏な聴覚は、何を捉えていたか?――後半の密室殺人なんかも、魅力的なシチュエーションが安易な種明かしに落とし込まれ、結果、バカミス(しかも笑えない)になってしまっています。せめてトリックの伏線くらい張っとけよ、甲賀・・・

とはいえ(以下は、ファンの欲目です)。
「そのころ、私の前途は暗闇だった」で始まり、「私は世界一の幸福者だと思っている」で終わるこの中編は、天涯孤独の若者が、地獄巡りののちに、生涯の伴侶と莫大な富を得るお話で、なんだかんだいってそのストーリーラインには、普遍的な物語の良さがあります。横溝正史の『八つ墓村』あたりを想起されよ(ワトスン的な主人公をサポートするのが、『八つ墓村』の金田一耕助は、ちゃんとホームズなのに対して、本作の緑川はルパンという違いはありますがw)。
前述のようなプロットの不備を補い、もう少しヒロインのキャラクターを膨らませて言動に説得力を持たせ――そのためには分量が不足だったでしょうから――いっそ長編化すれば良かった、そのヴァージョンを読んでみたかった、と思わせるものはあります。
埋もれた宝石ではなく、原石でしたwww

No.147 8点 怪奇文学大山脈Ⅱ- アンソロジー(国内編集者) 2014/11/23 12:50
知の巨人(あるときは学者、またあるときは作家、そしてまたあるときは翻訳家――ときどきTVタレントw)荒俣宏氏の、怪奇者としての編集・執筆活動の集大成ともいうべき、巨大アンソロジーの第二巻は、前巻の【19世紀再興篇】を受けて、副題に「西洋近代名作選【二〇世紀革新篇】」と謳われています。
二〇世紀前半の、編者こだわりの未訳作品を中心としたセレクトで、怪奇小説黄金時代を追体験させる試みで、例によって、豊富な図版(モノクロなのが残念ですが)とヴォリュームたっぷりの「まえがき」(今回は、“怪談”から“怪奇小説”へという、我国におけるジャンルの呼称の変遷をめぐるエピソードが興味深い)、そして詳細な「解説」(長年の蓄積に裏付けられた、個々の作家・作品をめぐる情報の厚み! あえて難を云えば、近年の邦訳状況への言及が不足していること)が付されています。
収録作品は――

ヒチェンズ「未亡人と物乞い」、クロフォード「甲板の男」、ホワイト「鼻面」、マイリンク「紫色の死」、エーヴェルス「白の乙女」、ボッテンペッリ「私の民事死について」、ベリズフォード「ストリックランドの息子の生涯」、コッパード「シルヴァ・サアカス」、ハートリー「島」、マッケン「紙片」、デ・ラ・メア「遅参の客」、オニオンズ「ふたつのたあいない話」、ハーヴィー「アンカーダイン家の信徒席」、メトカーフ「ブレナー提督の息子」、ウォルポール「海辺の恐怖―――瞬の怪談」、ウエイクフィールド「釣りの話」、ウォーナー「不死鳥(フェニックス)」、サーフ「近頃蒐めたゴースト・ストーリー」

前巻から通して読むと、素朴な――という表現が悪ければ、ストレートな――怪談が、技巧的な怪奇小説に変化していったさまが、如実に窺えます。
巻頭に置かれた、ロバート・ヒチェンズの「未亡人と物乞い」は、その意味で象徴的。恨みを残した魂魄がこの世にとどまり、原因となった未亡人の前に幽霊となって現われる――わけですが、作話上の仕掛けで、当の彼女にはそれが幽霊であることが分からない、しかし、幽霊を見ることの出来ない視点人物(読者代表)には、彼女の“見ている”それが、まぎれもない幽霊であることが分かってしまう。そして怖くなる。“透明怪談”(作者ヒチェンズには、「魅入られたギルディア教授」という、同テーマの正攻法の作例もあります)のヴァリエーションとして、まことに巧妙で、筆者としては本巻のベスト3に入れます。

こうした技法がさらに洗練されると、解説のなかで荒俣氏も指摘されているように、そもそも怪異があったのかどうかすら判然としない、ウォルター・デ・ラ・メア流の“朦朧法”になるわけですが・・・
その、すべてを暗示にとどめる行きかたは、ときにもどかしいw
編者絶賛の(しかし荒俣氏は、ストーリーの解釈上、ひとつ明らかに大きな勘違いをされています。なぜ編集者はチェックしない?)、ジョン・メトカーフの「ブレナー提督の息子」などは、怖さの対象が、本来の怪奇現象(?)から、それを受け取った側にスライドする見事な試みで、なるほど確かに傑作といって差し支えないとは思うのですが、でもミステリ者としては、回収されない(思わせぶりな)伏線の数かずにイライラしてしまうwww
幾つかの収録作では、“進化”した怪奇小説の孕む問題点(フツーのエンタメ読者からの乖離)も、同時に浮き彫りになっている気がします。

チマチマした話ばっかりなの? もっとこう、幽霊や怪物がバーンと出てきてゾクゾクさせられるようなのが読みたいんだけど――という向きにお薦めなのは、マリオン・クロフォードの「甲板の男」(強い南風の夜、外洋航海船から消えた水夫は、海の藻屑となったはずだったが・・・)やE・L・ホワイトの「鼻面」(謎めいた富豪の屋敷に押し込んだ、三人組の前に次々と現われる異形の部屋。その最深部に待ち受けていたものは・・・)でしょうか。

そうした重厚感のある力作とは別に、筆者の好みで、スタンダードな怪談路線からひとつ選ぶとすれば、H・R・ウエイクフィールドの、切れ味鋭い「釣りの話」になります。怪しい状況(絶好の釣り場に思えるのに、なぜかガイドが「あそこでは釣れません」と案内をしぶる、深い淵の存在)が設定され、クライマックスへ向けて展開し、ついに主人公の前に人外のものが出現するわけですが・・・短いセンテンスを畳みかけ、一瞬の、しかし激しい遭遇を、コマ送りのように読者の脳裏に焼き付けます。結びの一行も、至芸というしかありません。“最後の怪奇小説作家”と称される、ウエイクフィールドの噂は、かねてから耳にしていましたが、実作を読むのは今回が初めて。なるほど、さすがの筆力です。創元推理文庫から出ている、個人短編集『ゴースト・ハント』も是非読まなければ。

英米作家にまじって、オーストリアのグスタフ・マイリンク、ドイツのH・H・エーヴェルス、イタリアのマッシモ・ボンテンペッリといった異色の顔触れが競演しているのも、ジャンル・アンソロジーの愉しさですね。このヴァラエティは、往年の『新青年』の、欧米エンタメ小説の取り込みの再現であり、あらためて同誌の目配り、その先進性に思いがいたります。

そうそう、異色といえば、また違った意味で、シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナーなるイギリスの女流作家の、「不死鳥(フェニックス)」にも触れておかねば。鳥の飼育が趣味の資産家が、アラビアで見つけた本物のフェニックスをめぐる騒動記で、これはどう考えても怪奇小説じゃない。人それをファンタジーと呼びますw 偏愛の作品をしれっと本巻に紛れこませ(第三巻に収録予定だったものが、繰り上がったその事情はさておき)、ニヤリとしている荒俣さんの顔が目に浮かぶようです。でも、面白いでしょ? と言わんばかり。ハイ、面白うございました。ユーモアに富んだ語りくちに乗せられ――急転直下の結末に、思わず口あんぐり。怪奇小説の変遷だとか、技法の進化だとか、み~んなどこかへ行ってしまいましたwww
(ここで声が小さくなる)本音をいえば、こういう、肩の力の抜けた良い作品を、怪奇小説のほうからもっと拾って欲しかった、かな。

No.146 6点 鍵のない家- E・D・ビガーズ 2014/11/11 11:25
ボストンの名門ウィンタスリップ家の御曹司ジョンは、旅行先のハワイに長期滞在を続ける、ミネルバおばさんを連れ戻すため、一族の総意を受けて、サンフランシスコ港から船でホノルルへ向かう。しかし、上陸前夜、そのハワイでは、ミネルバが身を寄せていた、ウィンタスリップ家のはみ出し者の資産家が自邸で殺されていた。暗闇の中、おばさんが目撃した殺人者の正体は? 「こんなことをやった人物が当然の裁きを受けるのを見るまで、ここを動くつもりはないわ」と宣言する彼女に閉口しながらも、ジョンは、地元ホノルル警察の巡査部長チャーリー・チャンとともに、事件解決へ踏み出していくことになる。
被害者の暗い過去が、事件の遠因なのか、それとも・・・?

昨年、驚いたことに電子書籍(ハウリオブックス)でも新訳が出ましたが、kindle を持たない筆者にとっては、やはり紙の本が有難く、今年、新たに論創海外ミステリで出たものを求め、一読しました。1925年に発表された、チャーリー・チャンものの第一作で、まだチャンが警部になる前のお話です。
その昔、『別冊宝石 「世界探偵小説全集」』のE・D・ビガーズ篇で、併録の『黒い駱駝』と一緒に読んでいますが、面白かったという漠然とした印象と、作中トリック以外は綺麗さっぱり忘れており、再読のしがいがありましたw
トリックを覚えていたのは、その大胆さにいたく感心したからですね。ハワイという舞台に見事にマッチしていますし、タイトルがそれを象徴しているのも好印象。読み返してみても、その部分の評価は動きませんでした。
ただ真相を知ってしまうと、本格ミステリとしては、途中の展開がまったく無駄に思えるのが、難ではあります。あのトリックを生かすためには、レッドヘリング操作が不可欠なので、多くの容疑者を右往左往させるのは仕方が無いとしても、どれもが捨て駒で、読者の仮想犯人たりえない。結局、最後のほうで主人公のもとに、重要なデータがバタバタ集まってきて(事前に、照応する最低限の伏線は張られていますが)、事件はそれまでの捜査とは関係なく、一気に解決に向かうわけです。
アメリカの長編本格“黄金時代”の幕開けを、一年後のヴァン・ダイン(デビュー作は1926年の『ベンスン殺人事件』)に譲ることになったのも、そのへんの弱さを考えれば頷けます。

頷けますが――
さきほど、「本格ミステリとしては、途中の展開がまったく無駄に思える」と書きました。しかし、小説として、途中が冗漫かというと、必ずしもそうではない。
それは本書が、ハワイのまったりした雰囲気のなかで、堅物の主人公が変化していく、その過程(その援助者としても、チャンは存在する)を描くドラマでもあるからです。小説の最初と最後では、ジョンは別人です。その変化のためには、やはり時間と、さまざまなエピソードの積み重ねが必要なわけで、けっして事件がすぐ解決してしまってはイケナイw
そして、これはレヴュー済の『黒い駱駝』の感想とも共通しますが――
魅力的なハワイを“人生の楽園”として描くのではなく、成長儀礼のための“仮の宿”として描いている点に、筆者は惹かれます。ジョンは、ここで人生の伴侶を得、ここから新たな一歩を踏み出すことになります。ハワイに骨をうずめるのではなく、といって、もとのボストンの型に嵌まった生活に戻るのでもなく。その分岐点としてのハワイ。背景描写は完璧です。

ジャンル投票は「トラベル・ミステリ」にしようかと本気で考えたのですが、嗚呼、海外部門には無かったwww

No.145 7点 怪奇文学大山脈Ⅰ- アンソロジー(国内編集者) 2014/10/23 09:19
荒俣宏氏は、いまや日本を代表する知の巨人の一人ですが、筆者の世代にとっては、まず『帝都物語』の人であり、加えて、ミステリと隣接する“怪奇と幻想”分野の先達であるわけで、その氏が、ひさかたぶりに“怪奇”に戻ってきて、全3巻の巨大アンソロジーを編んだとなれば――怪奇文学、といった大げさな表題は個人的には苦手なのですが――これを無視するわけにはいきません。
「西洋近代名作選【19世紀再興篇】」と銘打たれた本書の内容は、以下の通り。

・第一巻まえがき 西洋怪奇文学はいかにして日本に届いたか
・第一部 ドイツロマン派の大いなる影響:亡霊の騎士と妖怪の花嫁
 ビュルガー「レノーレ」、ゲーテ「新メルジーネ」、ティーク「青い彼方への旅」、作者不詳「フランケンシュタインの古城」、クロウ「イタリア人の話」、ハウスマン「人狼」
・第二部 この世の向こうを覗く:心霊界と地球の辺境
 ブルワー=リットン「モノスとダイモノス」、レ・ファニュ「悪魔のディッコン」、オブライエン「鐘突きジューバル」、マーシュ「仮面」
・第三部 欧州からの新たなる霊感と幻想科学小説
 クラム「王太子通り二五二番地」、チェンバース「使者」、エルクマン=シャトリアン「ふくろうの耳」、ツィオルコフスキイ「重力が嫌いな人(ちょっとした冗談)――『地球と宇宙の夢想』より」
・第一巻作品解説

本邦初訳作品を中心に、「過去二〇〇年のうちに起きた怪奇文学発展の歴史というべき大山脈が一望できるような文芸地図を描きあげる」壮大な試みのスタートです。
ソフトカバーながら、美しい装丁と豊富な図版が醸し出す“豪華本”感が半端でなく、二段組み四百五十ページに及ぶ本書の、合わせてじつに百ページ近くを占める、「まえがき」と「解説」の情報量には圧倒されます。
個人的に、目から鱗が落ちた文章を「まえがき」から引くと――

 「さらにアメリカでは、ハードボイルド小説の雄ダシール・ハメットが『夜に這う』(一九四四)と題したアンソロジーを編纂しており、同じパルプ・マガジン仲間だったH・P・ラヴクラフトを取り上げた」

ハメットとラヴクラフトが“パルプ・マガジン仲間”というワードで結びつくオドロキ。いや~、ミステリばかり読んでいても、なかなかそういう事には気がつきません。
肝心の作品より、そうした荒俣氏の文章のほうが面白い――のが難でしょうかw
読者は、怪奇小説黎明期の、どちらかというと資料的価値のまさった作品群を、編者のパースペクティブを通して“読解”していくことになります。
たとえば、変幻自在のサイコ殺人鬼を描いた、リチャード・マーシュの「仮面」は、ミステリとしてはB級、C級もいいところなのですが、怪奇小説のアンソロジーに組み込まれることで、「個性(パーソナリティ)という確固たる現象に揺らぎを持ちこんだ怖さ」がクローズ・アップされることになります(余談ながら、作者のマーシュは、創元推理文庫に長編の代表作『黄金虫』が収録されているのですが(現在は絶版)、解説では、戦前訳の『甲蟲の怪』のことにしか触れられていません。本書の版元の、東京創元社の編集部には、自社本くらい、きちんとチェックして欲しかった)。
集中、掛け値なしに“名作”といえるのは、雪深いスカンジナビア山中を舞台に、二人の兄弟が美しくも妖しい女に翻弄される、クレメンス・ハウスマンの中編「人狼」(「白マントの女」として、工作舎のアンソロジー『狼女物語』に既訳あり)。緊迫した追跡劇の果てに、兄が目にしたものは・・・。これは、仮にあの『怪奇小説傑作集』(創元推理文庫)に入れたとしても、上位を争う出来だと思います。
好みで次点をあげるなら、洞窟遺跡を舞台に、ユニークな“地底幻想”が想像力を掻き立てる、エルクマン=シャトリアンの「ふくろうの耳」(「梟の耳」として、ROM叢書『エルクマン‐シャトリアン怪奇幻想短編集』に既訳あり)でしょうか。作中、怪異を理解するキーとなる(はずの)手紙の断片のなかに「(・・・)灼熱の溶岩が煮え立ちはじけ飛ぶさまは恐ろしくも神々しいものです。これに比べられるものといえば、果てしのない宇宙の深みを覗き込む天文学者の抱く思いだけでしょう」という一節があります。
それを受けるような形で、収録作品の掉尾を飾るのが、宇宙旅行に想いを馳せたロシアの科学ファンタジー。この配列にはシビれました。まさにアンソロジー読書の醍醐味。ツィオルコフスキイのお話が、面白いか面白くないかは、まあ些細な問題ですwww

怪奇小説ファンは、当然押さえておくべき本ですが(垂野創一郎、南條竹則、夏来健次といった定評ある怪奇者の、訳文の競演はゴージャスです)、狭義のミステリ・ファンも、基礎教養のため一読して損はありません。というか、是非手にとって、アンソロジストの情熱を感じとってみてください。いろいろ刺激されるものがあるはずです。

No.144 3点 影なき魔術師- 梶龍雄 2014/10/09 12:06
本書『影なき魔術師』は、梶龍雄が『透明な季節』で江戸川乱歩賞を受賞した昭和52年(1977)に、“乱歩賞受賞作家のジュニア・ミステリー”として、当時、“推理”と“SF”を二本の柱にして、新旧とりまぜたラインナップを繰り広げていた(いまは無き)ソノラマ文庫から刊行されました。本書のちょっと前には、新作として、赤川次郎の『死者の学園祭』だとか、高千穂遥のクラッシャージョウ・シリーズの第一作『連帯惑星ピザンの危機』なんかが出ています。
筆者の少年時代の記憶の一ページを、懐かしく彩る文庫です。ただし、本書はまったくスルーしており、まさか後年、読みたくなって探しまわる羽目になるとは、そして古書価の高さに絶句することになるとは、思ってもいませんでした (^_^;)

さて。
なんとなく書き下ろしの長編だとばかり思い込んでいた本書ですが、実際には、原稿枚数二百枚程度の「影なき魔術師」と、もう少し短めの「消えた乗用車」の二作を収めた、中編集でした。おそらく中学生向けの雑誌などに発表された旧作(それまで、児童向けの仕事を多くこなしてきた梶なのです)が、乱歩賞効果ではじめて本になったものでしょう。

医者に面会謝絶を申し渡され、恋人のマリ子に会えなくなった「ぼく」の前に、“影なき魔術師”と名乗る不思議な紳士が現われ、マリ子に危険が迫っていると告げ、彼女が転地療養に向かった、疑惑渦巻く伊豆の港町を舞台に、善玉悪玉入り乱れての冒険活劇が展開していく表題作は、話の運びはまことに達者でベテランの風格すら感じさせますが(もとより “本格”を意識したお話ではないものの、ラスボスの正体に関しては、早い時点できちんと伏線を張っています)、「困っている人や、危険なめにあっている人を見ると、つい手助けしたくなる性分」だという、“影なき魔術師”のキャラ設定がいささか中途半端で、余韻を残すはずのラストが消化不良に終わっています。正義の味方としての、彼の普段の活躍を描く作品が他にあれば、対比で生きてくるエピソードだと思うのですが・・・。

併録の「消えた乗用車」は、主人公の少年・健一の、大好きな女の子が事故で失明し、その手術費用を得るため彼女のお兄さんが銀行強盗を働いたのではないか? という疑惑から、一転、逮捕されたお兄さんの“アリバイさがし”に移行するお話で、手術を終えた女の子が目の包帯をとるその日を(心情的な、兄妹再会の)タイムリミットに設定し、ウィリアム・アイリッシュばりのサスペンスで読ませます。ばりの、というか、証人となるはずの「乗用車」の女性が名乗り出ず、その存在自体が謎めいてくるというあたりは、モロ『幻の女』がお手本ですw 彼女がなぜ名乗り出てこなかったのか? という部分に関しては、いちおう工夫されているのですが、事件を少年に解決させるため、あまりにも大きな偶然を使っているのが難。シリアスなお話が、いっぺんに作りものになってしまいました。

――などと、いいトシしたおっさんがジュヴナイル(サイトのジャンル登録は「青春ミステリ」でしておきます)に難癖つけるのは、野暮のきわみというものですがw
もし少年時代に読んでいたら、どうだったかな? ふと考えます。
きっと面白く読んで――でも、作者の名前を記憶することもなく、忘れてしまったかな。
同じソノラマ文庫の、当時の新人でいえば、『仮題・中学殺人事件』の辻真先、前述の『死者の学園祭』の赤川次郎などには、ミステリ的な工夫とは別に、小説自体に“刺さる”要素があったんですよ。健全な児童小説にあるまじき、毒というか、苦みのようなもの。でもそれが、少なくとも筆者にとっては、大人の世界に踏み込む前に、大人の世界を垣間見せられたような衝撃となって、深く刻み込まれたわけです。
カジタツの本書に、それはありません。健全な、あくまで健全な世界。それは決して、悪い事ではないのです。しかし・・・。

No.143 9点 三つの棺- ジョン・ディクスン・カー 2014/07/26 16:52
これからしばらく雑事に追われ、投稿ができなくなるので、余裕があるうちにと、気になる新刊『三つの棺』[新訳版]に目を通し、感想をまとめておくことにしました。
うだるような猛暑のなか、雪の夜の惨劇の物語を読み進めたわけで(版元も、もう少し出版の頃合いというものをだな・・・)、季節感も何もあったもんじゃなかったわけですがw

筆者は、ポケミスを読みはじめた中学生時代に、三田村裕の改訳版でまず同作を読みました。
ハヤカワ・ミステリ文庫になったものは、所持しているだけで未読。
作家の二階堂黎人氏の指摘で、同訳の誤訳問題を考えるようになってから、村崎敏郎訳の古いポケミス版を探して再読、合わせてイギリスのペイパーバックも入手し、こちらにも目を通しています。

ストーリーは、あらためて紹介するまでもないでしょうw
ゴチャゴチャしてるし、無理に無理を重ねてるし――率直に云ってアンフェアです(ディクスン名義の『殺人者と恐喝者』の、あの“叙述”に駄目出しをする人たちが、本作の導入部に文句をつけないのは変)。
でも、そうしたすべてのマイナスを帳消しにする、稀有のパワーを、筆者は『三つの棺』に感じます。
結末の謎解きにより、すべてが逆転し、真相を知った読者は、自分が作中キャラとともに、通常の本格ミステリとはまったく異質の時間軸の中を彷徨させられていたことに気づくのです。
その感覚は、SFでいうところのセンス・オブ・ワンダーに近い。

今回、読み返して改めて実感したのは、この小説って、プロローグ的な導入の「1 脅迫」をのぞけば、本題の事件自体は、2月9日(土)の夜に発生し、翌10日(日)の夜には解決しているんですよね。
象徴的なのが、「遅かれ早かれ、このことには誰かが気づいただろう」という、ラスト近くのフェル博士のセリフ。
不可能を可能にする、○○操作の魔法は、でも長くはもたない。“検死裁判”というリアルが介在してくるまえに、どうしても幕を下ろす必要があったわけです。
まるで、長い長い短編を読んだような、不思議な酩酊感が残ります。

カーで一作、ということになれば(好きな作品は他にあるとしても・・・)、やはり、これになるでしょうね。
まあ専門的な「密室講義」があったりするので、入門書としてはキビシイと思いますがwww

最後に。
[新訳版]の、加賀山卓郎氏の訳文について。
以前、筆者はこのサイトのレヴューで、同氏による『火刑法廷』の翻訳を、「全体としては、読みやすくなっていると思います。しかし、ところどころ首をかしげる表現が目について・・・ 」とクサしました。
同じことを、本書についても云わなければならないのは残念です。
『三つの棺』に関して過去に問題にされた、トリックの誤訳問題は解消しているので、これから本作を読もうという読者には、この[新訳版]を推薦してはおきますが・・・
前述のように、筆者は(まがりなりにも)原書でも読んでいる人間なので、いくつか別な箇所での、明らかに間違っている訳が気になってしょうがありませんでした。
加賀山氏は、『ハヤカワミステリマガジン』2014年9月号に寄せたエッセイ「『三つの棺』新訳に寄せて」のなかで、旧訳を擁護し「新訳に際してもいろいろ学ぶところがあった」と述べています。
でもねえ、加賀山さん、旧訳がちゃんと訳してるところを、あなた何箇所か、わざわざ誤って訳してますよ。何を学んだのかな?
いちゃもんでない証拠に、ひとつサンプルを。

「17 密室講義」のなかに、こんな文章があります。

 「別荘の壁の板と板のあいだから仕込み杖の刃が突き出されて犠牲者を刺し、すぐに引き抜かれるかもしれない」 (加賀山訳)
 
 「あずまやをおおったツタごしに、仕込み杖の薄い刃で被害者を刺し、すぐに引っこめる」(三田村訳)

原文はこう。

 The victim may be stabbed by a thin sword-stick blade , passed between the twinings of a summer-house and withdrawn;

カーのような作家、まして『三つの棺』のような作品を訳すとなったら、英語力だけでは駄目なんです。
せめてG・K・チェスタトンのブラウン神父シリーズあたりは、全部読んでるくらいでないと。
もしミステリの知識がなければ、ある人に協力をもとめればいい。
いまの早川書房編集部に、それは期待できないのか(巻末の「ジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)長編著作リスト」は労作ですが、残念なミスも多すぎですし・・・)。

殿堂入り名作として、当然の10点を本書に献上できないのは、そうした翻訳への不満によります。

No.142 8点 霧の中の館- A・K・グリーン 2014/07/01 08:34
論創海外ミステリの、作家・作品のセレクトには、もともと驚かされることが多かったのですが(叢書のスタート当初は、方向性の模索もあったのでしょうが)、ひと頃の粗製乱造を脱し刊行ペースがゆるやかになるにつれ、ある程度、想定内の(マイナー・クラシックの)“本格”中軸路線で落ち着くかと思われました。
ところが・・・今年2014年に入って、月2冊の刊行になってから、また妙なものがイロイロ出はじめたw
そのヴァラエティは、妙なたとえかもしれませんが、「探偵小説」の名のもと、海外のおもしろ小説(怪奇だったり冒険だったりユーモアものだったり)が満載されていた、往年の『新青年』増刊号あたりの目次を彷彿させるものがあります。
こんなの出して売れるのかいな? という余計なお世話と、これじゃあ読むのが追いつかないよ、という愚痴をひとまずおくとすれば――なんだかエンタメ小説の百貨店(死語?)のようで楽しい。
くれぐれも、拙速主義の復活はNGですよ。それが力を込めた一冊なら勿論、もしかりに刊行点数を維持するための一冊だったとしても、回復した叢書の信頼を無くさないよう、最後まで丁寧な本づくりを心がけて下さい、と、この場を借りて、編集部および関係者各位にお願いしておいてw

さて。
では、1月に刊行され、そんな新生(?)論創海外ミステリの口火を切ることになった、本書を見ていくことにしましょう。
長編探偵小説の揺籃期にベストセラーとなった、デビュー作『リーヴェンワース事件』(1878)ほぼ一作でミステリ史に名を残す――しかし活動期間は1920年代初頭にまでおよび、複数のシリーズ・キャラクターを駆使し多くの著作を残した――アメリカ女流 A・K・グリーンを、短編集で、しかも日本オリジナルの編集(波多野健 編)で紹介しようという、意欲あふれる一冊です。
収録作は、以下の通り。

 ①深夜、ビーチャム通りにて
 ②霧の中の館
 ③ハートデライト館の階段
 ④消え失せたページ13
 ⑤バイオレット自身の事件

うち①②がノン・シリーズ。③が、『リーヴェンワース事件』で主役をつとめた警官探偵グライスの、初手柄の回顧譚。④と⑤が、元祖ナンシー・ドルーともいうべき(いや、シリアスさからいったら元祖コーデリア・グレイか?)お嬢様探偵バイオレット・ストレンジものです。なんと、全編本邦初訳。

筆者は、じつは『リーヴェンワース事件』にあまり感心せず、これまでアンソロジーで読んだグリーンの短編も、とりたてて印象に残っていなかった人間なので、正直なところあまり期待もせず「でもまあ、あの“館もの”嫌いの mini さんが認めてるくらいだから・・・目は通しておくか」くらいの気持ちで手に取りました。
そして――巻頭の「深夜、ビーチャム通りにて」(雪の夜、ひとりで留守を守る新妻のもとへ、突然、侵入者が・・・というサスペンス・タッチのお話)の、急転直下のラストで、頭を一撃されたような衝撃を受けました。ヤ・ラ・レ・タ。グリーンの文章は、大仰で長ったらしくなりがちなのですが(そのメロドラマ調の文体が、当時の読者に受けた要因でもあるのでしょうが、残念ながら年代の刻印ともなっている)、これはキビキビ運ばれており、いや見なおしました。

続く、表題作(こちらは、霧深い夜、とある館に迷い込んだ旅人のお話。うさんくさい面々が集まりだして、弁護士立会いのもと、異様な遺言状が公開されていくのだが・・・)も、中編サイズの分量ですが、ダレがちな回想のフラッシュバックを、テンションの高い遺言状の内容に盛り込むことで、逆にサスペンスの維持に成功しています。解説で波多野氏も強調されていますが、ヒロインがシングル・マザーである点も印象深く(発表は――1905年ですよ!)凄惨なクライマックスを経たあと、ドラマは、すべてを浄化するような彼女のセリフで締めくくられます。
アイデア・ストーリーとしての①、グリーンの作家的技量をしめす②、これを最初に並べたのは、実にいいですね。

シリーズ・キャラクターものの③④あたりも、けっして悪い出来ではありません。
グライス刑事(ちなみに本文中のフル・ネーム表記はイベニーザ・グライス。解説だとエベニーザー・グライス。これは統一しましょうよ、波多野さん)の、殺人代行業者へのスリリングな囮捜査を描く「ハートデライト館の階段」は、推理の要素こそありませんが、なるほど面白い殺人のギミックが暴露されます。原書でミステリを読んでいた甲賀三郎は、あの「蜘蛛」(1930)を書くまえに、このお話を知っていたのかな? なんてことを、ふと思いました。ちょっと気になったのは、過去の事件での「青いリボン」のゆくえ。毎度毎度、うまく流されていってくれるとは思えないんですがw
「消え失せたページ13」は、タイトルに謳われた、密室から消えた紙片の謎解きは噴飯ものなんですが、そこからさらに“館”の秘密が暴き出されていくという、中編ならではのダイナミックな展開に見所があります。背景の男女のドラマ(その決着のつけかた)は・・・さすがに大時代か。でもフラッシュバックの盛り込みかたは、②同様に工夫され、グリーンがガボリオの単なる模倣者でないことを証明しています。あと、これは作品の出来とは何の関係もないことですが、作中、もっとも筆者の頭に焼きついたのは、出入りが困難な通路に挑む、探偵役バイオレットに関する以下の記述。

 (・・・)それはかくも小さな扉だった! 十一歳以上の子供は、おそらく無理矢理でも通り抜けることもできないだろう。さいわい、彼女は十一歳の体型だったので、おそらくその問題は何とかなりそうだ。

ロリかあ! バイオレット・ストレンジは、合法ロリなのかあwww
失礼しました <(_ _)>
⑤は、そんなバイオレットお嬢様が、なぜ(女性が働くことが決して当たり前と思われていなかった時代に)職業探偵をやっているか、その理由が明らかになる一編。この作品に関しては、じつはまったくミステリではないのですが、シリーズものの幕切れとして感動的で、余韻を残します。

作品配列に留意し編集された本書は、A・K・グリーンの入門書として最適のものでしょう。
編訳者の情熱に敬意を表し、採点は8点とします。
ただ、巻末解説は力作なんですが、邦訳データが不親切で、あのままでは、あげられた作品がどこで読めるのかが分からない。もし改稿の機会があるようなら、そこはきちんと記載しておくべきだと思います。
 

No.141 3点 デイン家の呪い- ダシール・ハメット 2014/06/20 16:54
コンチネンタル探偵社の「私」(名無しのオプ)が、宝石盗難事件の調査の過程で知り合った娘、ゲイブリエル。彼女の家系(デイン家の血)は呪われているのか? 所を変え繰り返される、惨劇の連鎖。その中心には、つねにゲイブリエルの存在があった。個々の事件は、一応の解決を見ていくが、「私」は納得しない。これが偶然であるものか。裏で糸を引いているのは誰だ――?

Black Mask 誌の1928年11月号から翌29年2月号まで、四回に分けて掲載されたのち、改稿を経て(三部構成に改められ)、『赤い収穫』と同じ29年に単行本化された、ハメットの第二長編です。
村上啓夫訳のポケミス版で所持しながら、ずっと“積ん読”だったこの作品を、小鷹信光の新訳(ハヤカワ・ミステリ文庫 2009)で読了しました。

う~ん、これはねえ・・・駄目。
ミステリ的にどうこういう以前に、シリーズものとして、駄目。
前作『赤い収穫』は、ヒーローのはずの主人公が、暴走し壊れていくという異様な物語でした。あきらかに一線を越えてしまった「私」の、その後をどう描くか?
しかし作者は、そこに目をつむってしまった。
あたかも、アレは“ポイズンヴィル”という町の毒気にあてられたオプの、一時的な乱心だったとでもいうように。
殺戮ゲームを無事に生き延びたサラリーマン探偵の「私」は、上司にお灸をすえられたあと、もとどおりのワーカホリックに戻りましたとさ。
でも・・・そこでオプというキャラクターは終わってしまったのです。
本作において、オプは、麻薬に溺れたヒロインの身を案じ、彼女が無事に社会復帰できるよう尽力します。その“優しさ”は、のちのチャンドラーのフィリップ・マーロウ(あるいは島田荘司の御手洗潔w)にも通じるもので、そうした新生面を評価する向きもあるだろうとは思いますが、ドライなキャラクターからの変貌が著しく、筆者にはキャラ崩壊としか受け取れません。
訳者の小鷹氏は、解説のなかで「『デイン家の呪い』が『赤い収穫』とはまったく風味の異なる小説である」とし、「探偵役のオプの役柄もまるで別人だ」と述べられていますが・・・
異なるタイプの小説に、無自覚にオプを流用したのは(本書の第二部は、既発表のオプもの短編「焦げた顔」が原型になっているので、仕方ない面もあるとはいえ)、大きな失敗でした。
そしておそらく、ハメットもそれを自覚した。このあとの長編で、一作ごとに、その“世界”にふさわしい探偵役を創造しているのは、そういう反省に立ってのことだろうと筆者は考えます。

さて。
ではミステリ的にはどうなのか、というと・・・これがまたパッとしない。
本サイトのジャンル設定が「本格」になっているのには驚きましたが、たしかにこれは、本格とハードボイルドが対立する概念ではないことをしめす、サンプルではあります。
ありますが、でも、あまりにゴチャゴチャしすぎて、種明かしされてもスッキリ納得できない。
オプのまえに出現する“幽霊”とか、密室状況下で炸裂する手榴弾とか、個々のパーツは面白いんですけどね。
本書に関しては、正直、当時のパルプ・マガジンの通俗小説の域を出るものでは、ないでしょう。
ヴァン・ダインを酷評したことで知られるハメットですが、この作を読んだ(ら)ヴァン・ダインも、言いたいことはあったろうなあwww

ただ。
これは翻訳だけ読んで語ってはいけないかもしれませんが・・・
筋立ては、当時の「通俗小説の域を出」ないとしても、それを表現する、簡潔で淡々とした文体には、時の経過による腐食をこばむ、パワーを感じます。
書き出しの一節――いっさい余計な説明を抜きに、ショッキングな発見とそれに続く「私」の対応を描くハメットの筆致は、かくの如し。

 それはまぎれもなくダイアモンドだった。青く塗られたレンガの歩道から六フィートほど離れて芝生の中で光っていた。台座がついていない四分の一カラット以下の小さな粒だ。私はそれをポケットにおさめたあと、四つん這いにこそならなかったが、できるだけ芝生に目を近づけて探し始めた。

まぎれもなく練達の士です。

No.140 5点 大臣の殺人- 梶龍雄 2014/06/13 18:57
明治初頭。
もと旗本で、いまは心ならずも警視庁の密偵をつとめる、結城真吾。そんな彼への、上層部からの新たな指令は、北海道を出奔し東京に潜り込んだ、ある殺人犯の捜索だったが、詳細を知らされないこの仕事、なにやら胡散臭い。果たして彼の行く先々で、関係者が殺されていき、どうやら事件の背景には、元勲・黒田清隆(北海道開拓使。のち内閣総理大臣となる)絡みのスキャンダルがあることが、わかってくるのだが・・・

昭和53年(1978)に、主婦と生活社の21世紀ノベルスから刊行された本作を、当時中学生だった筆者は、リアルタイムで書店で手にとっていますが、地味でつまらなそうなので、すぐ棚に戻した記憶があります。同シリーズの、後続の辻真先や赤川次郎(ともに期待の新人でした)の本は、小づかいをやりくりして求めたのにw
今回の初読は、古本で捜した中公文庫版によります。

ジュヴナイルの『影なき魔術師』をのぞけば、これは乱歩賞受賞作『透明な季節』、『海を見ないで陸を見よう』に続く、梶の第三長編にあたりますが、執筆自体はそれらより早く、昭和五十一年度第二十二回江戸川乱歩賞応募作品の、予選通過作品リストに、そのタイトルを見ることができます(二次予選は通るも、最終候補には残れず)。
史実の中に架空の殺人事件をはめ込む試みは、あるいは、政治家・田中正造が大きな役割を果たす、小林久三の第二十回受賞作『暗黒告知』に、刺激されたものかもしれません。

さて。
出版にあたって、多少の加筆修正はされているのでしょうが、それにしても、これはプロットといいキャラクターといい文章といい、とても予選落ちするレヴェルではないですよ。堂々本選に残り――伴野朗の『五十万年の死角』に惜敗するのがふさわしいw

どちらかというとハードボイルド寄りの、マンハントの興味で展開していたストーリーが、ある事件を契機にガラリと様相を変える、そのチェンジ・オブ・ペース、ストーリー仕立てのミスディレクションには感心しました。ああ、やっぱりカジタツは“本格”の人だ。
ただ真相を知ってしまうと、主人公の動きと並行するように第一、第二の殺人が起こったのが、あまりに偶然すぎる気はします。この犯人、それまで何をやっていたんだw

あと、全体の構想は、都筑道夫流にいえばモダーン・ディテクティヴ・ストーリイなんですが、いざ本題の事件での犯人のパフォーマンスを見ると、黄金時代パズラーもかくやの、タイトなスケジュールの綱渡りなんですね。
バロネス・オルツィやアガサ・クリスティーが好きな筆者としては、目をつぶってあげたくなりますが、常識的には・・・まあ単独犯では無理だろうなあ。前記のレディたちのように、きちんと共犯者を使わないとw

ラストの処理も、賛否が分かれるところかもしれません。主人公があんなふうになって(探偵役の退場というシニカルさは、前作――一応こう書いておきます――『海を見ないで陸を見よう』にも通じるか)、おまけに犯人まで、いったいどうなったの? という終わりかたですから。
う~ん、犯人のほうは、闇に葬られたんでしょうねえ。
権力者たちの謀略が、最終的には市井のから騒ぎなど圧殺してのける――時代ミステリの締めとして、これはこれでアリと筆者は考えます。読後感は確かに苦い。でもその苦さこそ、作者が意図したもののはず。
文庫版の解説を「(・・・)梶作品の“明治ロマン”として本篇の読後感には、まことに爽やかなものがある」と結んだ武蔵野次郎氏は、はて、何を読んでいたのか。

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おっさんさん
ひとこと
1960年代生まれの、いいかげんくたびれたロートル・ミステリ・ファンです。
再読本を中心に、あまり他の方が取り上げていない作品の感想を、のんびり書き込んでいきたいと思っています。
好きな作家
西のアガサ・クリスティー 、東の横溝正史が双璧。
採点傾向
平均点: 6.35点   採点数: 219件
採点の多い作家(TOP10)
栗本薫(18)
横溝正史(15)
甲賀三郎(12)
評論・エッセイ(11)
エドガー・アラン・ポー(9)
アーサー・コナン・ドイル(9)
ダシール・ハメット(8)
アンソロジー(国内編集者)(7)
野村美月(7)
狩久(7)